26 décembre 2009

vers Lubumbashi ルブンバシへ (初日)

ダルエスサラム(タンザニア)からルブンバシ(コンゴ)まで。
アルジェリアの2年半、その後のパリ、東京、ドバイ、タンザニアについては別途記述します。

Le 17 decembre 2009, jeudi
朝10時、Association Katanga-Japonの会長Kyungu氏の友人でDar es Salaam(Tanzanie)在住のChansa氏と米大使館前で待合わせ、港に向かう。埠頭は5番。ゲートから中に入れない。ところが、ゲートの内側で2000Tsh(140円)/人払うとチケットをくれてゲートの中に入れることが分かった。またところが、ゲートの中にはもう一つのゲートがあって、ここから先はパスのある業者などだけが入れる。その第二ゲートの中にいる通関業者Mbasha氏に電話連絡、待つこと30分。Mbasha氏ではなく、同じ会社の人がきて同行で中に入ることができた。そしてついに僕の車と対面。アルジェリアのキャンプ4で僕が調達した同じタイプだが色はダークグレーの三菱L200ピックアップ・ダブルキャビンがそこにあった。既にコンテナから出されていた。この車をDubaiで求めてから2ヶ月。感激であった。コンテナからの取り出しにあたったという人夫たちに某か駄賃を払えと通関業者がいうので10 000Tsh(700円)を手渡した。五六人でわけるようだ。喜んでいた。それから、僕が運転して第二ゲート脇のチェックポイントで簡単な書類検査。ところが、第一ゲートのチェックポイントで2時間待たされた。14時半、ついにここの検査を終えて5番埠頭ゲートを通過。このときから勘定して72時間内にタンザニアを離れる決まり。しかも国境までの通り道も指定されていてそれを外れることができない。従って、ホテルに自分の車で荷物をとりに行くわけにはいかない。車は港の向かいの保険会社で付保、同時に仮ナンバー(TI ナンバー)を取得しなければならない。通関業者から監視を兼ねた運転手が第二ゲートでつけられたので、彼に金を渡して、合流地点を決めてからChansa氏の車でホテルに帰ることになった。ホテルに帰る途中でKalume氏(やはりキュング会長の友人)の事務所に別れの挨拶に行った。かれも早期通関を喜んでくれた。一番喜んだのは、毎日僕からSMSや電話で問い合わせられていたChansa氏に違いないが。ホテルまでの道が例の如く込み合い、ホテルに着いたのは16時。宿泊代金の半額をとられた。忘れ物がないように既にある程度まとめてあった荷物をとってホテルを出発。バスルームにシャンプーを忘れていたのはその夜、ホテルについてシャワーを浴びる段階になって初めて気がついた。あわただしくDar es Salaamを離れる。尾崎氏(タンザニア6年の日本人投資家)と夜はステーキハウスに行くことになっていたが、キャンセルせざるを得なかった。尾崎氏の事務所は合流地点の直ぐ近くだが、指定ルートを若干戻ることになるので、尾崎氏には電話でしか挨拶ができなかった。なんでこんなに厳しいのだろう。過去に行方不明になった車が多数あったからだそうだ。17時合流地点のガソリンスタンドで満タンにしていよいよアフリカを横断する旅がスタートした。
Dar es Salaamの郊外が延々と続く。ダルエスサラムから60kmほど行ったChalinze村のチェックポイントで通過時間を記入。ここで日が落ちるまで僕が運転、夜間は運転手と交代した。初日の宿泊地をMorogoroと決めた。出発してから3時間半ほどの短い地点だ。小さな村をいくつも通り抜けた。途中で激しい雨にあった。
Morogoroのホテルも、市内に入ることは禁止されていて、街道筋のホテルを選ばなければならない。小さなホテルAnni Innというところを運転手がみつけてそこに泊まることにした。ホテルの敷地が塀で囲まれていて、その敷地内にパーキングできる。
宿帳にサインをさせられたのだが、名前、旅券番号、住所、出生地などの記入項目はいいとして、部族(tribal)という項目があったのには驚いた。Japanと記入しておいたが、大和民族とでもしておいたほうが正しいのだろうか。
宿賃は安く20 000TshのSuite(!)と15 000Tshのシングル、二人で2 450円なので僕が運転手の分も払うことにした。運転手は通常車の中で寝ることが多いのだそうだ。部屋を見たときは水もお湯も出なかったが、食事後に部屋に入るといずれも供給されるようになっていた。エアコンはなかった。蚊帳がつられていたが大きな穴だらけ。電気蚊取りを早速ソケットに差し込んだ。
夕食も街にはいけないから、いやTaxiでいけばいけるのだろうが、そんなに簡単ではない。ホテルにレストランがあるというので、そこで食事。そういえば、朝食をホテルで取って以来食事をしていない。ビールを飲みながら待つこと1時間、やっと食事がでてきた。他に食事を注文した客がいないので、炭をおこすところからはじめたのだそうだ。僕はニワトリを追いかけて絞めるところから始めたのかと思った。出てきた鶏の硬いこと、靴底か革ベルトを齧る感じだった。添えられていたフレンチポテト(これをchipsとタンザニアでもザンビアでもいう。日本でポテトチップといえばカラカラに揚げられた薄いビールのつまみになるチップスしかいわないと思うが、正しい英語なのか東アフリカ特有の表現なのか不明)ばかりを平らげた。
運転手の名はSiwa。回教徒。しかし、ビールを飲む。とくに祈りの時間に休憩することもない。ラマダンの断食は金がある年にはして、金のないときはしないそうだ。7人の子持ち。女房が毎夜せがむからそうなったというが、果たしてどちらがせがむのか怪しいものだ。アフリカ人にしては珍しい狡猾な顔つき。腹がでた中年。顔色が悪く艶がない。アフリカ人特有の美しい睫毛ではなく東洋人のような直毛の睫毛。エンジンブレーキを使わない。運転は慎重というより、クラクションを鳴らしまくる好戦的運転。出身はタンガニーカ湖の方だそうだ。「貴方は私のご主人様だ」などとへりくだったりする。気に食わぬ奴。

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