28 décembre 2009

vers Lubumbashi ルブンバシへ (6日目)

「vers Lubumbashi ルブンバシへ」の最終回である。
特筆すべき冒険談はなかった。タンザニア-ザンビアまたザンビア-コンゴの国境での長い長い待ち時間を除けば、むしろ快適な旅であったといえる。

Le 22 decembre 2009, mardi
6時に起床。シャワーを浴び、洗顔。Pepi君は朝の祈りを捧げていた。しきりにカスンバレサという国境の町の名前が差し挟まれた。今日の道中が首尾よくいくように神におねがいしているようだ。荷物をまとめ車に乗せた。7時にホテルを出発。
途中ChingolaにPepi君が小麦粉(25kg袋)を買うために立寄り、残りのクワチャ全て(100 000K=1 800円ほど残っていた)を使って燃料補給をしただけでコンゴ国境に向かった。
カスンバレサKasumbalesaの手前7Km地点からトラックが道の両脇で列をなしていた。コンゴに向かうトラックとコンゴから銅の粗鋼などを積んだトラックである。クリスマス、年末とあってコンゴに向かうトラックの数もおびただしい。それが全く無秩序で車道を塞いでいる。一車線しか残っていない。警官がいくら指導しても無駄。次々と大型トラックが道を塞ぐ。この道に並行して拡張道路の準備段階なのか舗装されていない道が続いている。しかし昨夜の雨でむかるみ、大きな水溜りもある。混雑した道で往生していると、少年たち五六人が荷台に乗せてくれとせがんできた。Pepi君に目配せすると、乗せてやれという。了承すると荷台に乗って、道案内を始めた。舗装していいない悪路の方を通るとき、荷台から降りて立ち往生しているトラックの前方を確認したり、水溜りの深さを木の枝で測ったりと献身。おかげで無事悪路をのりきり、混雑したトラックの列を脇に見ながら先に進むことができた。この悪路で始めて四駆で走った。さすがスリップすることがない。ザンビア側の最期のチェックポイントで車の通過登録をすませると、そこは既に国境。日本カタンガ協会の会長キュング氏と友人アラン君が国境を越えて出迎えにでてきてくれていた。
ザンビア国境警察で出国手続き。乱れた列のためにここで90分を要した。車の方が早くコンゴ側にアラン君の手配した通関業者Kenexの運転で入ってしまった。そしてコンゴ民主共和国への入国手続き。業者と一緒なのでスムーズなのだが、検疫官(女性)がYellow cardにいちゃもんをつけた。チフスとコレラの予防注射をしていないとは法律違反だという。2006年にルブンバシ空港から出国の際と同じ事をいう。WHOのrequirementにないのだからこれらの予防注射は不要なのだが、抗議しても僕の意見が採用されるわけもない。目的はsweetなのだ。通関業者からいくらかかると聞いてもらって10ドルを払った。係官がYellow Cardになにやら怪しいサインをした。旅券審査では、20ドル。車を保税地域に入れるための警察の案内人に5ドル。今年6月空路ルブンバシに入ったときはこうした細かい賄賂請求が全くなくなっていた。陸路は相変わらずの悪習慣が残っている。これは改善しないといけない。
車を保税地域に置いて、カスンバレサの通関業者の事務所に行く。そこで通関費用の計算が行われた。関税、通行税、保険等々10項目以上が加算され5 960ドルが必要だという。青天の霹靂。日本カタンガ協会名で通関すれば免税の筈だというと、残念ながらキュング氏がまだその手続きをしていない。覚悟しなければならなかった。しかし手持ちがない。東京から送金してもらわなければならない。Vadacom(コンゴの携帯会社)のUSBモデムを貸してくれたので僕のPCでインターネット。こんなサーヴィスは2006年に来たときにはなかった。ネットで僕の銀行口座から元銀行家で友人の宇野兄に送金。彼の口座から海外送金手続きをしてもらう操作をその場で行った。しかしswiftとしてもどれほど時間がかかるかわからない。通関業者Kenexのオーナー社長BenTchisenga氏が出てきて頻りと適正な料金であると主張する。送金が確認される前に通関手続きに入るから安心しろという。いかにも銭ガバ、旧型の経済人、実力者の趣。アランが古くから知っている人物だというから信用するしかない。
カスンバレサからルブンバシのホテルまでトヨタの車で送ってくれたが、途中でオーナーの囲いらしい女性を乗せた。とても別嬪さん。この女性がこのオヤジとね、やはり金の力かと想像する。
カスンバレサからルブンバシまでは90km。2006年に通ったときは舗装もボロボロ、穴だらけの悪路だったが、今は素晴らしい道路となっている。ここも中国が工事をしたと確認した。高速道路化も始まっている。
ホテルではなくStudio(小さなアパート、1DK)を希望していたけど、用意されていなかった。60ドルは負担だ。場所も部屋も悪くないけど、自炊がしたい。食材はアルジェリアよりも豊富に手にはいる。
夜はホテルでKyungu氏、アラン君と食事。塩気の多いステーキだった。カタンガのビール「Simba」(スワヒリ語でライオン)が美味い。車をその場で通関できなかったのはくれぐれも残念だが、無事に事故もなくルブンバシにつけたのだから乾杯である。

27 décembre 2009

vers Lubumbashi ルブンバシへ (5日目)

Le 21 decembre 2009, lundi
T-シャツとランニングを洗濯。庭の植木に干した。2時間ですっかり乾いた。このアイデアはPepi君からもらった。

Kitweには三菱自動車の代理店Southern Cross社がある。ベンツの代理店もかねている。この町には日本の主要な自動車会社の代理店が全てある。三菱はトヨタと同じ通りで軒を並べていた。Soutern Crossで三菱の純正部品、オイルフィルターなど3点購入。タンザニアのつばさ自動車尾崎氏がおっしゃるとおり、街中の自動車部品店で出してもらったパーツは良く見ると日本語の漢字がまちがっており(旧漢字やはた簡体字)、中国かどこかのまがい物であることを確認した。新車であるし、やはり純正部品を使いたい。

ZambiaではBPやカルテックスのガソリンスタンドがある。Dieselも有名ブランドのスタンドでないと水やケロシンと混ぜて安く売っていると聞いているので、一応ブランド志向とする。タンザニアでもBP、Engenを選らんでいた。

ザンビアのBPのスタンドには必ずBarclays銀行のATMがおいてある。便利を良く考えている。BPの作戦なのか、Bakraysのそれなのか。Mpikaのスタンドでは、そこにあったATMでザンビアのお金Kwachaを引き出して代金を支払った。Dar es Salaamで満タンにしてから、ゲージが1/4を指していたMafingaで再び満タンに以来、Zambiaで始めての給油であった。30万K。30万というと大きな数字だが、5 400円。Dieselは多少タンザニアが安く(105円前後)、Zambiaが高かったが(120円前後)、産油国は別として日本の価格とあまり変わりないのではないか。フランスでは130円もする。しかし為替が大きく作用している。

午前中、さらにshopping centerの専門店でフライパンと鍋など購入。インド人の店。東京よりも高級品が安い。日本の物価が高すぎるのだろう。それと円高が僕に幸いしていることも間違いない。ショッピングセンターはここ以外に数箇所あるようだが、まわってみるとここが一番いい。駐車に2000K(36円)かかるが、一日何回も出入りできる。ShopriteというDar es Salaamにもあったスーパーがここにも進出していた。ルブンバシにも店が出来るそうである。

午後高級住宅街River Sideを走った。いいvillaがたくさんある。しかし幹線を除いて舗装されておらず、荒れ放題。その一角にprix-qualite(値段と質)からみて得と書かれていたEagle Guest Houseがある。探してみると、なるほど悪くない。プールの水も透明。部屋も広く清潔。Twinで150 000K(2 700円)。Diamondとたいした差はない。次にKitweに来ることがあればこの宿にしたい。Pepi君も納得。このホテルの受付嬢に訊くと、Kitweにはイタリア料理店、中華料理店も数件あるそうだ。ルブンバシには一流のイタリア・レストランと構えは一流の中華料理店があるが、とても高い。ひとり50ドルは下らない。

夜、イタリア料理店を探したが見つからず、中華に行った。一軒目は中国人のグループがいて料理が遅くなるというので二軒目へ。出てきた料理はacceptable。数匹の猫が店の中を走りまわっていた。庭には犬もいた。アフリカでは、一般的に猫は追い払われる対象。獰猛な犬は番犬としてのみ飼われている印象であるが、この店では日本と同じように愛玩の対象とみた。僕のスイス生まれの愛猫チカちゃんは今頃日本でどうしているのだろう。食べ残しは包んでもらってtake out。二人で200 000K(3 600円)。ルブンバシよりずっと安かった。

vers Lubumbashi ルブンバシへ (4日目)

Le 20 décembre 2009, dimanche
悪路が続く。しかし、昼間みると夜とは違って穴の周りには白ペンキが塗ってあってかなり前から穴の位置がわかる。昨夜は雨と闇でわからなかった。2時間ほど走ると、そこからコンゴ国境まではもう穴はなく、素晴らしい舗装道路になった。今までの穴凹道が嘘のようである。快適なドライヴとなった。今日は運転手の最終日。朝から運転手に仕事をさせた。

景色はあいかわらず森と草原が果てしなく続く。耕作されている土地が少ない。農家の回りだけである。しかし、ところどころ、道端でトマトや馬鈴薯を売っている。よく売られているのは、しかし、炭である。俵につめて道の脇に置いている。誰にも盗られないのかなぁ。耕作された土地といえば、タンザニアの国境の町に入る手前10数キロにわたって水田があった。ここに日本の農業技術が生かされているとしたら喜ばしいことだ。ザンビアやコンゴにも水田に適した広大な土地がある。何時かカタンガでも水田風景をみることができるのだろうか。日本カタンガ協会としても日本に技術援助をお願いしなければ。

日曜日とあって正装して教会にいくのであろう老若男女が道路脇を歩いている。教会がどこにあるのか分からない。彼らはひたすら歩く。道路にほぼ平行して単線の鉄道が走っている。時々駅がある。駅舎はない。プラット・ホームもない。走っている列車の姿もない。 Zambiaの首都Lusakaと、銅採掘精錬でコンゴのカタンガと並び世界的に有名なCopperbelt州とに行く分岐点Kapili-Mposhiに昼12時過ぎには着いてしまった。
この分かれ道のところにガソリンスタンドがあり、Fast foodの店、自動車パーツの店、そして有料トイレとシャワーがある。ちょっと文明のあるところに来た気分。普段Fast Food嫌いの僕もハンバーガを頼んだ。不味い。だがこれがモダンなのだろう。
Copperbeltに北上する道はさらに良くタンザニアと比べても遜色ない。交通量も多くなった。14時過ぎにCopperblet州の行政の中心Ndola市に到着。市の入り口で沢山の貨車をみた。街中に入り喫茶店で休憩。Zambia Zain社の携帯Simカードを求め、ルブンバシの友人たちにSMS連絡。Tunduma以来の連絡である。一歩一歩カタンガが近づく。Ndolaから経済の中心地、ザンビア第二の都市Kitweまでは片側2車線だが高速道路!とはいえフェンスがないから人が通るし、時々横断する道路もある。しかし紛れもなく高速道路。中央分離帯は幅が広く植林されている。瞬く間にKitweに入ってしまった。
僕もネットで調べていたが、Pepi君の案内する2件目のホテルに決めて泊まることにした。Diamond Lodge。彼の知り合いのコンゴ人たちがたくさん泊まっていた。二人で120 000K(2 160円)。離れのTwin。プールもあったが、水が汚い。泳ぐ気がしない。蚊の発生源の一つだ。しかし、ここで2泊することにした。というのは、乗っている三菱のパーツを買うためである。その他日用品もコンゴより安く、いい品物がありそうだ。海外の鉱山会社の金が流れている。

夕方ホテルの周りを散歩。ピンクのEdinburghホテルが市の中心だろう。植民地時代風の建物。その入り口であのSimonに会った。2006年にルブンバシにいたときの事務所兼住居の大家である。嘘吐きで時間にルーズ、嫌な男だ。世の中は狭い。関わりあいたくない人物だ。このホテルの裏がマーケット。小さな店が林立する。臭く暗い。不潔。世代が少しあとなので実際に経験したことはないが日本の戦後の闇市を想像すればいい。セネガルのダカールやタンザニアのダルエスサラムのマーケットとかわりない。バンコクやサイゴンの市場も似たようなものだが多少上屋が近代化されている。これをアフリカのdynamismeとは僕は考えない。

夜はホテルで食事。またトリとフライドポテト。それしか出来ないという。OK。親切に部屋まで運んでくれた。からりと揚げられていて、アフリカで初めて上手いトリだった。Pepi君は先の汚いマーケットで、僕が貸した15 000K(270円)で豆などを買い込んで、ホテルで調理してもらっていた。その出来が悪いので不満そうだった。

夜半に大雨。雨粒が激しく屋根を叩いた。

vers Lubumbashi ルブンバシへ (3日目)

Le 19 décembre 2009, samedi
朝8時過ぎ運転手が呼んだ通関業者Fredがやってきた。小型の若い男である。国境は24時間開いているのではなく(ケニヤとの国境は24時間あいているらしい)、8時半から18時ころまでだという。通関費用については、前日運転手が300ドルだというので、高いと思いChansa氏に連絡して裏をとっておいた。通関業者に明細をきくと総計215ドルにしかならない。午前中のクイック通関を依頼し250ドル渡し、領収書をかかせた。昼過ぎまでかかった場合罰金として1時間当たり50ドルとるぞ、と宣言したものの効果はないだろうな。昼になると、後2時間、それが迫ると、後1時間等々、ついに17時半まで国境まえで待たされた。14時ころスコール。通関業者の軒先で雨宿りしていると事務所の中まで招き入れてくれた。親切。K&Kという通関業者。僕が使ったFredの店とは違う。運転手はTundumaで2泊目を主張したが、僕はあきらめなかった。17時半になり、FredがZambia側の書類がととのったことを知らせに来た。するとFredの上司がやってきて、「今日はもう遅い。タンザニア側の役人がofficeを閉める時間だ。明朝国境を越えるようにしろ」という。僕はそこでどなりちらした。「早朝から待っているんだぞ、冗談じゃない、昼までに通過させてくれるというから多めに払ってやったのじゃないか」。この上司がTanzania側の役人と交渉したのか20ドルのsweetを払ったら今日中に通過出来るようにするというので、宿に泊まっても同じような額になるので、一日も早く国境通過をするためにドルを渡した。
通関の遅れはザンビア人が怠け者だからとタンザニア人はいう。ザンビアの道は悪く、道路上で警察官や兵隊にsweetなりdrinkという名の賄賂をしょっちゅう要求される。タンザニア人のいうザンビア人の評価は最低だ。
タンザニア側でポケットにあったタンザニア通貨(シリング)を全てザンビア通貨(クワチャKwacha)に交換した。10 000Tshが35 000K。両替所だと38 000になるようだがbureau de changeは既に閉まっていた。150 000Tsh(10 500円)ほど持っていた。
とも角、こうして国境を通過しようとしたときに、コンゴ人の青年がやってきて、「兄とトラックを運転してここまできたが、今日中に国境を越えられない、何時になるかも分からない、貴方の車に乗せてくれ」という。悪い人間でもなさそうだったし、運転手とはザンビアのKapili-Mposhi市までなので、その後の道案内も助けてくれるだろうからと思い承知した。ペピPepi君である。敬虔なクリスチャンだった。フランス語で会話が出来るのも気が楽だ。携帯のアクセサリーをルブンバシで商っているそうだ。Dubaiに仕入れに行った帰り道。がっしりした体つきで精悍な顔つき。その後、彼と同室で3泊したわけだが、不快な思いをしたことは一度もなかった。就寝初めにちょっと鼾をかくぐらいだ。一応気をつけてはいたけれども、一銭も盗られていないし、なくなったものもない。
国境を越えるとザンビアはコンゴのカタンガ州と同じ時間帯、タンザニアと一時間時差がある。18時半にタンザニアを出たから、ザンビアに17時半に入ったことになる。
国境からしばらく行ったところで、検問があり、「シャーシー番号が書類と違う、国境までもどって直して来い」と若い兵隊がいう。確かにタンザニア上陸のときからシャーシ番号の一文字、4が1になっている。理由はわかったし、相手に理由がある、しかし、ごねているとsweet。 50 000 Kachas(10 000Kが180円)というのを20 000K(360円)に負けてもらった。これからいちいち検問のチェックで同じことが繰り返されても困るというと、B/Lのシャーシ番号は車と一致しているから、B/Lのコピーをみせれば大丈夫だと教えてくれた。それがわかっているなら何故国境まで戻れなどといったのか。抗弁しても仕様がない。その後コンゴ国境までシャーシ番号を調べることはなかった。またsweetをとられることもなかった。笑顔でいくつもあった検問所の兵隊や警官と接すると彼らもまた笑顔で応えくれて、直ぐに開放してくれた。友好作戦である。
この検問を通ってから暫くすると激しい雨が降り出した。小ぶりになったところで運転手と運転を交代。すると悪路が始まった。メンテが悪くて、穴だらけ。しかも大きくて深い穴もところどころにある。スピードがだせない。しかもずっと悪路が続くというのではなく、ときどき申し分のないいい道になる。そこでスピードを出すと突然悪路にさしかかる。その繰り返しであった。二度大きな穴凹に突っ込んで車体に大きなショックを与えた。運転手を叱っても無駄だ。ライトに照らされた範囲では穴凹を避けようがない。昼間明るいうちに走行するべきだった。急がずTundumaで泊まればよかったのだ。しかしそれはもう遅い。交通量はタンザニアに比して少なくなったが、時折バスや乗用車が猛スピードでこちらを追い越していく。タンクローリーが突進してくる。雨によるスリップだって怖い。慎重な運転をしなければならない。運転手は交差するときに右折ランプをつける。車幅を相手に報せる為だという。そういえば相手側も右折ランプをつけるときが多い。僕なら本当に右折するのではないかと吃驚してしまう。Mpikaまで休みなく走った。着いたときには24時を回っていた。駐車場のあるGuest Houseをみつけて、そこに泊まることにした。3人で二部屋とり、僕とPepi君がTwinに入り、運転手は別の部屋にした。80 000 Kwachas(1 440円)。安いけど、蚤や蚊がいなかったのだから正解である。蚊帳のあるベットとないベット。蚊帳の有る方に寝させてもらった。とはいえこの蚊帳も大きな穴がいくつか開いていた。トイレット・ペーパーとよれよれの、しかしちゃんと洗ったバスタオル、石鹸ももらった。一流ホテルを除いてトイレット・ペーパーがアルジェリアやアラブの国ではないことが多い。レストランのトイレには先ずない。それにトイレがそれらの国では不潔だ。幸い、タンザニア、ザンビアで汚いトイレを使用することはなかった。ホテルのレストランは既にしまっており、食事が出来なかった。途中まともなレストランもなかったので空き腹で就寝。車の中にあったバナナは運転手がちゃっかり食べてしまっていた。僕はTundoumaで昼食に、いつ通関できるかわからず、スーパーでビスケットを買って齧っただけ。
Mpikaも高原の町でエアコンがいらない。この町から北に折れて一時間半ほど走ると温泉がある。ネットでみると北ローデシア時代からの瀟洒な老舗旅館がそこにあるようだ。今は孫が経営しているが、祖父が理想郷だと惚れこんで館を建てたところから始まったという。いつか訪れてみたい。北ローデシアは、南ローデシアと違って紛争や内戦がなかった。南ローデシアはジンバブエZimbabweとして1980年になってやっと独立した。北ローデシアがZambiaとして英国から独立したのは1964年のことである。

vers Lubumbashi ルブンバシへ (2日目)

Le 18 decembre 2009, vendredi
昨夜は暗闇でわからなかったが、朝起きてみると周りはかなり高い山々で、霧がかかっている。エアコンがいらない筈だ。高原地帯。気温も肌寒いくらい。朝食もとらず、というのは、昨夜のように1時間も待たされてはかなわないからだが、7時丁度にホテルを出発。行く手も山、左手は山脈、右手は潅木の大平原。緑の多い季節だ。まもなくミクミ国立公園の一角を通る。サル、鹿、水牛などが道路脇にいたが、キリンやライオンの姿はなかった。動物たちを見るには、近くのホテルなどでサファリを申し込む。そうすると、ライオンやキリンの生息地に連れて行ってくれるという仕組みである。3万~5万円かかる。僕は指定された道を離れられないし、時間的余裕もないので通り過ぎるだけだ。途中で車を止めて降りては危険であると注意書きの看板があった。小用も我慢したほうがいい。公園を過ぎたあたりにはいくつものホテルが街道沿いにある。昨夜、少し足をのばせばここのホテルに泊まれたろう。朝のコーヒーを「タンザニア・スイス・ロッジ」でとった。パトロンがスイス人で奥さんがタンザニア人だそうだ。なかなかしゃれたロッジであった。
一路国境の町Tundumaまで走る。途中、Mafingaのチェックポイントで車の通過確認申請。2度目のチェックポイント。18時までにこの地点を通らなければいけないと。14時に余裕を持って通過したので全く問題なし。遅れると1時間毎に40 000Tsh(2800円)の罰金をとられるそうだ。ここで、ツーリストが利用するまともなレストランがあるというので、そこで昼食。ツーリスト用を指定したのは食事の内容のためではない。衛生の問題だ。エキゾチックな食事も面白いと思うかもしれないが、今、病気をかかえるわけにはいかない。トリ・カレーライス。フルーツ・サラダ付だったが、これがデザートではなくメインの前に出された。僕はデザートとして取っておいたが運転手は直ぐに食べていた。
道はこれまで完全舗装され、極めて良好。時速120kmで走っても危険を感じないし、そんなに速度を出している実感もない。しかし、道がいいだけにスピードを出しすぎたバス、トラックが路肩を飛び終えてひっくりかえっているような事故現場を10件以上みた。多すぎる。この道路は、日本の鴻池組や鹿島建設がODAで建設したのだそうだ。
18時には国境に到達してしまった。国境到着の前の比較的大きな町Mbeyaで泊まらず、国境の町Tundumaで宿を探した。運転手推奨の宿はガレージがないので断り、この町で一番だというSilver Stone Houseに泊まることに決めた。一番といっても宿賃は一泊20 000Tsh(1400円)だから贅沢はいわない。水とお湯がでればいい。シャワーはトイレとが一体になっている。それは昨日のホテルも同じだった。シャワーを浴びるとバスルームが水浸しになるのでゴム草履がおいてある。
ディナーはこのホテルの小さな食堂でとった。ビーフ・ストロガノフがあるというので注文してみると、トマトソースの硬いビーフがでてきた。ダルエスサラムのインド人経営のホテルJangwani Sea Resortでは僕が女性コックに作り方を指導して一応まともなストロガノフが出てきたが、ここのストロガノフは全く別物だ。運転手は昼がヘヴィーだったからと食事を取らず、ビールだけを飲んでいた。
ホテルの庭のスピーカーから姦しい音楽が24時過ぎまで流れていた。

26 décembre 2009

vers Lubumbashi ルブンバシへ (初日)

ダルエスサラム(タンザニア)からルブンバシ(コンゴ)まで。
アルジェリアの2年半、その後のパリ、東京、ドバイ、タンザニアについては別途記述します。

Le 17 decembre 2009, jeudi
朝10時、Association Katanga-Japonの会長Kyungu氏の友人でDar es Salaam(Tanzanie)在住のChansa氏と米大使館前で待合わせ、港に向かう。埠頭は5番。ゲートから中に入れない。ところが、ゲートの内側で2000Tsh(140円)/人払うとチケットをくれてゲートの中に入れることが分かった。またところが、ゲートの中にはもう一つのゲートがあって、ここから先はパスのある業者などだけが入れる。その第二ゲートの中にいる通関業者Mbasha氏に電話連絡、待つこと30分。Mbasha氏ではなく、同じ会社の人がきて同行で中に入ることができた。そしてついに僕の車と対面。アルジェリアのキャンプ4で僕が調達した同じタイプだが色はダークグレーの三菱L200ピックアップ・ダブルキャビンがそこにあった。既にコンテナから出されていた。この車をDubaiで求めてから2ヶ月。感激であった。コンテナからの取り出しにあたったという人夫たちに某か駄賃を払えと通関業者がいうので10 000Tsh(700円)を手渡した。五六人でわけるようだ。喜んでいた。それから、僕が運転して第二ゲート脇のチェックポイントで簡単な書類検査。ところが、第一ゲートのチェックポイントで2時間待たされた。14時半、ついにここの検査を終えて5番埠頭ゲートを通過。このときから勘定して72時間内にタンザニアを離れる決まり。しかも国境までの通り道も指定されていてそれを外れることができない。従って、ホテルに自分の車で荷物をとりに行くわけにはいかない。車は港の向かいの保険会社で付保、同時に仮ナンバー(TI ナンバー)を取得しなければならない。通関業者から監視を兼ねた運転手が第二ゲートでつけられたので、彼に金を渡して、合流地点を決めてからChansa氏の車でホテルに帰ることになった。ホテルに帰る途中でKalume氏(やはりキュング会長の友人)の事務所に別れの挨拶に行った。かれも早期通関を喜んでくれた。一番喜んだのは、毎日僕からSMSや電話で問い合わせられていたChansa氏に違いないが。ホテルまでの道が例の如く込み合い、ホテルに着いたのは16時。宿泊代金の半額をとられた。忘れ物がないように既にある程度まとめてあった荷物をとってホテルを出発。バスルームにシャンプーを忘れていたのはその夜、ホテルについてシャワーを浴びる段階になって初めて気がついた。あわただしくDar es Salaamを離れる。尾崎氏(タンザニア6年の日本人投資家)と夜はステーキハウスに行くことになっていたが、キャンセルせざるを得なかった。尾崎氏の事務所は合流地点の直ぐ近くだが、指定ルートを若干戻ることになるので、尾崎氏には電話でしか挨拶ができなかった。なんでこんなに厳しいのだろう。過去に行方不明になった車が多数あったからだそうだ。17時合流地点のガソリンスタンドで満タンにしていよいよアフリカを横断する旅がスタートした。
Dar es Salaamの郊外が延々と続く。ダルエスサラムから60kmほど行ったChalinze村のチェックポイントで通過時間を記入。ここで日が落ちるまで僕が運転、夜間は運転手と交代した。初日の宿泊地をMorogoroと決めた。出発してから3時間半ほどの短い地点だ。小さな村をいくつも通り抜けた。途中で激しい雨にあった。
Morogoroのホテルも、市内に入ることは禁止されていて、街道筋のホテルを選ばなければならない。小さなホテルAnni Innというところを運転手がみつけてそこに泊まることにした。ホテルの敷地が塀で囲まれていて、その敷地内にパーキングできる。
宿帳にサインをさせられたのだが、名前、旅券番号、住所、出生地などの記入項目はいいとして、部族(tribal)という項目があったのには驚いた。Japanと記入しておいたが、大和民族とでもしておいたほうが正しいのだろうか。
宿賃は安く20 000TshのSuite(!)と15 000Tshのシングル、二人で2 450円なので僕が運転手の分も払うことにした。運転手は通常車の中で寝ることが多いのだそうだ。部屋を見たときは水もお湯も出なかったが、食事後に部屋に入るといずれも供給されるようになっていた。エアコンはなかった。蚊帳がつられていたが大きな穴だらけ。電気蚊取りを早速ソケットに差し込んだ。
夕食も街にはいけないから、いやTaxiでいけばいけるのだろうが、そんなに簡単ではない。ホテルにレストランがあるというので、そこで食事。そういえば、朝食をホテルで取って以来食事をしていない。ビールを飲みながら待つこと1時間、やっと食事がでてきた。他に食事を注文した客がいないので、炭をおこすところからはじめたのだそうだ。僕はニワトリを追いかけて絞めるところから始めたのかと思った。出てきた鶏の硬いこと、靴底か革ベルトを齧る感じだった。添えられていたフレンチポテト(これをchipsとタンザニアでもザンビアでもいう。日本でポテトチップといえばカラカラに揚げられた薄いビールのつまみになるチップスしかいわないと思うが、正しい英語なのか東アフリカ特有の表現なのか不明)ばかりを平らげた。
運転手の名はSiwa。回教徒。しかし、ビールを飲む。とくに祈りの時間に休憩することもない。ラマダンの断食は金がある年にはして、金のないときはしないそうだ。7人の子持ち。女房が毎夜せがむからそうなったというが、果たしてどちらがせがむのか怪しいものだ。アフリカ人にしては珍しい狡猾な顔つき。腹がでた中年。顔色が悪く艶がない。アフリカ人特有の美しい睫毛ではなく東洋人のような直毛の睫毛。エンジンブレーキを使わない。運転は慎重というより、クラクションを鳴らしまくる好戦的運転。出身はタンガニーカ湖の方だそうだ。「貴方は私のご主人様だ」などとへりくだったりする。気に食わぬ奴。