05 juillet 2010

6月30日 モエロ湖紀行(3日目) le mercredi 30 juin 2010 voyage au lac Moero (3ème jour)

Le 30 juin 2010, mercredi
快晴。
コンゴ(RDC)独立50周年記念日。

朝食後、シスター・テオドーラが面倒をみているピグミー人のキャンプを訪問。ドゥビエ郊外のマボンドMabondoにピグミーが住んでいる。彼らは国内難民déplacésだ。もともと森に住んで狩猟、果実採取で生活していた。定住したことがないから、家はなく農業も知らなかった。とくに耕作して農産物を売るなどということも経験がなかった。他のコンゴ人と馴染まず独自の社会を形成してきた。ところが、内戦で森が荒らされて食料となる動物も植物もなくなってしまった。生活を奪われたのである。だから町に出てきた。しかし、多くの町は彼らが来ることを拒んだ。彼らとただ握手することすら普通のコンゴ人はしない。ピグミーはコンゴ人なのにコンゴ人とみなされていない。僕もこの日誌の「コンゴの歴史」で書いたようにピグミーはコンゴの先住民である。ところが彼らには住民票carte d’identitéも発行されていない。選挙権もない。いや、建前としてはコンゴ人としての権利があるのかもしれないが実行されていない。もっと酷いのは、カタンガ東北部であるドゥビエやプエト、キルワ地方は数年前までマイマイと呼ばれる反政府軍、実は武装強盗殺人団の侵略の犠牲になったところであるが、ピグミーはヒトとはみなされず、動物と同じように殺され「食された」のである。自分の子供が目の前で鍋で煮られて食されたのを見た母親に僕は会った。マイマイの首領だったゲデオンGedeonは現在死刑執行をルブンバシの刑務所で待っている。カタンガのマイマイは、マイマイを騙る殺人集団だ。鬼畜である。なぜならコンゴ東北部キヴ州発祥の本当のマイマイはモブツに反旗を翻した反乱軍だったのだから。
今、ピグミーは森には帰れない。森の生活が不可能になった。農業で定着の努力をしている。やっと山羊や鶏を飼うことを覚えた。農業もトウモロコシを植え始めた。マニョックは収穫まで3年かかる。家は鶏小屋よりも酷い。日本のホームレスの小屋が御殿にみえる。彼らは貧しい普通のコンゴ人以上に貧しい。「腹がへった」というのがお互いの挨拶代わりの言葉である。医療は「国境なき医師団」が今年2010年1月引揚げてしまって有料になった。フランシスコ会とて4キャンプ6000人いるピグミー全部の世話をする資金力も人手もない。コンゴ独立50年。街ではお祭気分でパレードがあった。しかし、マボンドのピグミーたちに祭日はなかった。
クジラや鴇(トキ)、ゴリラが絶滅危険種だと巨額の金が動く。ヒトであるピグミーが絶滅にあっているというのに誰も知らない。ピグミーは2500年以上人口減少を余儀なくされてきた。アフリカから、世界から消えようとしている。定着して普通のコンゴ人、普通のアフリカ人になろうとしているのに誰も手を差伸べない。「ピグミーを救え!」

ピグミーの難民キャンプ訪問後、11時15分ドゥビエを出発。シスター・テオドーラに頼まれて一緒に途中の村カマコーラKamakolaまでダヴィド少年(16歳)を乗せた。彼はドゥビエ・フランシスコ会の中学校の寄宿舎で生活している。寡黙な少年だが利発そう。年末試験が終わって両親のいる部落に帰るところだった。カマコーラ到着15時半。キルワ帰着が17時を過ぎていた。途中は下り坂が多かったこと、ドゥビエに向かうときに止められた箇所に気をつけたこともあって殆ど問題がなかった。
キルワの宿舎の部屋は一昨日と同じ部屋だった。夕食は一昨日の僕の食欲を見ていたのか牛肉の煮込みだった。すみません。明日も長い一日だろう。ルブンバシに帰る日だ。お湯もくれたので水シャワーを浴びて就寝。

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