29 mars 2014

3月29日 3月末のフォステム校 école Fostem au jour de fin mars 2014

le samedi 29 mars 2014
6時、曇り、24℃、67.5%。

ギニア南部で猛威をふるっているエボラ出血熱だが、ついに首都コナクリーで患者が出たことが27日(木)確認された。ギニアには主のような日本人Sさんがいるが大丈夫だろうか。南部では88例中63名の犠牲者を今年に入って出している。

月末になったのでフォステム校の工事進捗状況を同校運営委員のノルベールさん、マリ・ジャンヌさんと見に行った。

中学部分の外壁、3教室のうちの2教室の壁のペンキ塗りが終わっていた。また一部の窓ガラスが嵌っていた。トイレの壁もペンキが塗られていた。このトイレは水洗ではない。用をたしたあとバケツの水で流す仕組みである。水道は校庭まで来ているが、水が出ない。前回の事情、水道会社のポンプ小屋のポンプが壊れているからである。従ってトイレは相変わらず使えない。
中学の教室
ここはまだ壁がレンガ剥き出し
今日は土曜日で生徒たちがいない。
フォステム校全景:左の白い壁が中学
今回ペンキが塗られた外壁
手前の土台は3年前からある、集会室などの予定地
手前のレンガ建がトイレ
中学の教室は3つある
ここは壁にペンキを塗った
屋根はあるが天井がない
黒板は壁にペンキを塗っただけ
「ボード」ではない
中学部門3教室
置くのレンガ建がトイレだが
水がなくつかえない
校庭の端まで水道は来ているが水は出ない
(理事のノルベールさん)
トイレの入り口
個室が6個あできた
水洗ではない、バケツで水を流す仕組み
小学校部門(高学年)教室
小学校(低学年)教室
マリ・ジャンヌさん
学区の理事かつ「日本カタンガ協会」事務局長
教室の入り口ドアの半分にガラスがはいった
左はノルベールさん

学校に塀がないので動物も侵入してくる
これは仔山羊君

3月28日 ルブンバシ市長 maire de la ville de Lubumbashi

Le vendredi 28 mars 2014
6時、曇り、24℃、65%。

9時半、停電。ネットも不通。クリスチャンが学校で聞いてきた情報ではキプシだけでなくルブンバシを含む広域停電で18時まで電気が来ないとのことだった。実際には16時に通電。15時には万一を考えて炭を熾した。

321日が春分の日だった。30日から31日にかけての夜、欧州が夏時間になる。ルブンバシの時間とパリが同じになる。キンシャサはルブンバシより常に1時間遅れである。米国やカナダ、ロシアでも国内で時差がある、RDCコンゴでもキンシャサとルブンバシで時差がある。それほどRDCコンゴの領土は広いということだ。広さからいけぼアルジェリアの方が面積がある。東西も西のアフリカで国内で時差がある国はコンゴ民主共和国だけである。

去年20133月のこの時期、のりちゃん、上田のり子さんが亡くなった。3月の満月は停電が続いた日の17日だった。前日も17日も、電気がつかなくて、雨季なのにその日々は窓から月明かりが射していた。
「願わくは花の下にて春死なん その如月の望月の頃」の歌を忘れることはないだろう。

RDCコンゴの教師たち(公務員)は給与を携帯会社のシステムで銀行振り込みになった。それ以前は上司が給与を各教師に渡していた。そうすると上司が全額を渡さず「抜き取り」をする。これが犯罪にならない国だから不思議なのだが、この悪習慣をなくすために銀行振り込みとなった。しかし、銀行の支店が国の隅々まであるわけではないから、携帯会社と提携した。システムはいい。しかし、この国の大手携帯会社、AirtelVodacomと提携してシステムが機能するはずがない。いずれも「ダメ会社」なのだから。教師たちは給与の支払い遅延、口座エラー等々の被害をこうむっている。改善すると携帯会社はいっているが、これまでの実績からみれば口先だけだとわかる。
教師たちはカトリック教会のネットワーク「カリタスCaritas」に政府からの給与支払いを請負ってもらいたいと政府に嘆願している。

水難、またかと思った。今回はアルベール湖である。先週22日(土)の事故は252名の犠牲者を出し日本でも報道された。RDCコンゴ政府は27日(木)3日間の喪にふくすると発表した。犠牲者はウガンダに身を寄せていたコンゴ人難民であった。ウガンダ政府は25日(火)犠牲者は107人で内子供が57人と発表していた。国連の難民高等弁務官事務所による在ウガンダのコンゴ人難民を帰国プログラムだった。ウガンダとRDCコンゴ政府の数字の差は頷けないが、ライフ・ジャケットなど備えていない船、恒常的大幅定員オーバーなどが原因であろう。やっと帰国できると喜んでいたであろう難民たち、彼らを迎えるコンゴ側の家族たち、極めて不幸な水難事故だが、人災であることはまぎれもない。

ルブンバシ市長ジャン・オスカール・サングザ・ムトゥンダ氏は2010年から現職についている。ルブンバシ市長になる前は同市ルアシ区長だった。RDCコンゴの市長職は選挙によらない。任命制である。サングザ氏はカタンガ州知事モイーズ氏に極めて近い人物とみられている。
市長が現在力をいれているのがルブンバシ市の清掃である。姉妹都市ベルギーのリエージュ市から2月中旬清掃車10台が寄付された。市民の健康を守るためには先ず街が清潔でなければならないとサングザ氏は言う。
何にもしないと評判だった前女性市長を引継いだサングザ氏で、彼は市長室にじっとしているよりも街に出てあれこれ指示を直接だしているということだが、ルブンバシは既に数百万の人口をようする大都市になっている。しかし、インフラは全ての面で貧弱である。中心部の道路は2012年以来舗装修理が行われてかなり改善した。しかし水道、電気を始めサービスを受けていない区がいうらもある。中心部でさえ停電断水は日常茶飯事だ。やることはいっぱいある。しかし金がないのも事実。記事は「よいしょ」で市長を持ち上げているが、一体これまでの市長に比べてサングザ市長の実績はと問えば僕は大いに疑問。
市長も知事同様定期的に民意を問う選挙を実施すべきだと思う。
ジャン・オスカール・サングザ・ムトゥンダ
Jean-Oscar Sanguza Mutunda
ルブンバシ市長

RDC : à Lubumbashi, la propreté, c'est l'affaire de tous
27/03/2014 à 11:35 Par Tshitenge Lubabu M.K.Diminuer Jeune Afrique

Cheval de bataille du maire de la ville : la lutte contre l'insalubrité. Pour réussir, l'hyperactif Jean-Oscar Sanguza Mutunda fait appel à ses partenaires locaux et étrangers.
Rencontrer le maire de Lubumbashi est tout sauf facile. Du moins à la mairie, puisqu'il est la plupart du temps en ville, semble-t-il. "J'aime le terrain. Je suis partout, même dans les caniveaux !" s'amuse Jean-Oscar Sanguza Mutunda en s'installant à son bureau, faisant d'emblée référence à son cheval de bataille : la lutte contre l'insalubrité. Élancé, le cheveu coupé très court, l'édile porte ce matin-là un costume gris à rayures bien ajusté.
"Catholique engagé", selon son expression, Jean-Oscar Sanguza se dit "convaincu d'être là pour relever le pays et amener la jeunesse à l'aimer". Il a commencé sa carrière dans l'administration territoriale au cours des années 1980. Agent recenseur, secrétaire communal, chef de quartier, coordonnateur provincial de la brigade d'assainissement, bourgmestre de la commune de Ruashi, puis de celle de Lubumbashi, il a été nommé maire de la capitale provinciale en 2010. À ses détracteurs, qui lui reprochent notamment d'être trop proche de Moïse Katumbi Chapwe, le gouverneur de la province, il répond du tac au tac : "Je le suis évidemment dans le travail ! Ce qu'il fait pour moderniser le Katanga et la ville nous pousse à lui emboîter le pas." En particulier sur le terrain de la propreté.
Pour le maire, le mot d'ordre est l'assainissement : "Il y va de la dignité de l'être humain. Ce n'est pas seulement à la municipalité de s'occuper de la propreté, en ville comme chez les gens. C'est aussi à la population, et si elle ne le fait pas nous allons appliquer la loi." Effectivement, en faisant le tour de la capitale katangaise, on constate que l'insalubrité est omniprésente et a pris une telle ampleur qu'elle commence à avoir des conséquences sur la santé des habitants, avec notamment l'apparition de cas de choléra. "Les brigades d'assainissement font leur travail, mais immédiatement après leur passage les habitants déversent toutes sortes de détritus dans les rues, les caniveaux et les drains", explique un Lushois.
Jumelage entre Liège (Belgique) et Lubumbashi
Dans la cour de la mairie, dix camions-poubelles flambant neufs sont garés. Livrée mi-février, cette flotte financée par le gouvernorat constituera une nouvelle arme dans le combat pour la propreté. Par ailleurs, une centaine de points de collecte vont être installés à travers la ville ; la population sera tenue d'y déposer ses ordures et de s'acquitter d'une taxe pour financer leur ramassage. Enfin, dans le cadre du jumelage entre Lubumbashi et la ville belge de Liège, une entreprise de traitement des déchets sera créée prochainement.
Jean-Oscar Sanguza est conscient que les résultats obtenus pour le moment dans le cadre de sa campagne pour la propreté "ne sont pas encore totalement satisfaisants". Il en va de même pour ceux relatifs au développement des réseaux d'assainissement, d'eau et d'électricité : de nombreux quartiers n'y sont pas encore raccordés, et ceux qui le sont subissent des coupures récurrentes. "C'est normal, explique-t-il, parce que les infrastructures n'ont pas été renouvelées depuis longtemps. Nous y allons petit à petit."
Enfin, l'édile tient à relativiser les inquiétudes et les rumeurs d'une insécurité accrue qui se sont propagées à la suite des attaques perpétrées l'an dernier dans la capitale provinciale par des groupes de miliciens séparatistes. "Il ne faut pas exagérer, tranche-t-il. Nous devons veiller à la sécurité des habitants, rassurer la population et les investisseurs, mais il n'est pas question de mettre des policiers partout. Lubumbashi est une ville calme."

avec AFP

27 mars 2014

3月27日 旧エリザベートヴィル ex-Elisabethville

Le jeudi 27 mars 2014
6時、小雨、25℃、65%。4時半に雨音で目がさめたが、6時には遠くの東の空は晴れていた。9時、晴れてきた。

庭のポインセチアの葉が赤く色づいてきた。乾季が迫ってきた知らせだ。

ワールド・ビジョン日本で教育里親制度を「チャイルド・スポンサーシップ」といっている。支援金は毎月チャイルド1人あたり50ドルかとおもったら4500円と確認した。普通どこの支援団体も『あしながおじさん』のように個人を支援しているわけではない。個人を支援すると、支援されていない子供と支援されている子供とを同じ学級や学校で差別することになる。学費が定期的に出せない子供を選んで何名まで通学させるかは学校に選ばせているようだ。子供の学費を払ったからといって親が喜んで子供を学校にやるとは限らない。なぜなら、子供がその家庭の重要な「稼ぎ手」である場合も多いのである。鉱山では勿論のこと、街なら市場で買い物袋(プラスチック・バッグ)を売っているのは子供たちだ。荷物運びもする。家のクリスチャンだって、親をなくしてから、あらゆる仕事をやったようだ。靴磨き、買い物袋売り、パン職人、左官等々。だから学校に行けなかった。ストリート・チルドレンを助けているバカンジャ校(サレジア会)に拾われたけれども長続きしなかった。だから今カトリック系中等部2年だけれど、クラスで最年長になってしまった。

ルブンバシは市政100年を超える。独立前はエリザベートヴィルといった。下記の記事は『Jeune Afrique』誌電子版に載った『ルブンバシ100年史』の著者のひとりカヤンバ・バディエ氏(ルブンバシ大学教授)とのインタヴューである。
記事によるとルブンバシの基礎は今ルブンバシ郊外の鉱山街ルアシRuashiから始まるようだ。1885年コンゴはベルギー国王レオポルドII世の私領として発足する。奴隷制が廃止された欧州諸国にもかかわらず、過酷な労働を強いた国王の評判は極めて悪く1908年にはベルギー国の植民地となる。それより先、1906年に現在の国営鉱山会社の前身であるユニオン・ミニエール社(UMHK、上カタンガ・ユニオン・ミニエール)が出来ている。1909年レオポルドを継ぐアルベールI世がコンゴを視察訪問。ルアシ鉱山はエリザベートミーヌと改名された。ミーヌはフランス語の鉱山。エリザベートはアルベールI世の后の名である。市政が1910年に始まったとき、エリザベートミーヌはエリザベートヴィルとなったわけである。
しかし、当時英国の思惑は、ローデシア同様、コンゴの鉱山のある地域を支配下におくことだった。現ザンビアのカッパーベルト州の鉱脈はRDCコンゴのカタンガ州の鉱脈と繋がっており、住民はベンバ人で同じ人種だ。だからルブンバシが英国領になっても不思議はない情勢だったといえる。
当初のエリザベートヴィルは移民が作った。それも南アフリカから来たヨーロッパ系移民である。英国人、イタリア人、ギリシャ人であった。一方、1920年代までにエリザベートヴィルの周りの黒人労働者居住地区をあつまったのも南北ローデシア(現ザンビアとジンバブウェ)、ニアサランド(現マラウィ)を中心に若干のアンゴラから集められた黒人であった。彼らがエリザベートヴィルに定住していくのである。1940年代末の景気回復期にユニオン・ミニエール社は海外に労働者を求めるのではなく、既にエリザベートヴィルの市民になっていた労働者たちからリクルートしていくことが出来るようになっていた。これら移民がコンゴ人化した労働者たちは「チャンガ・チャンがTshanga-Tshanga」と呼ばれた。「チャンガ」とは「混じった」という意味のスワヒリ語である。ルブンバシ市民は多くの血が混じった市民といえる。
上記以外に、レバノンなどアラブ諸国からの移民、フランス、スペインなどからの移民、ルワンダ、ブルンジからの移民、さらにはセネガルからも来ていたことを考えると、ルブンバシは人種の坩堝でもある。ところが、そんな坩堝なのに、コンゴ人同士、即ち東西カサイ州出身の人々とカタンガ州人との仲が余りよくないというのも不思議であると僕は思う。
現ルブンバシ、旧エリザベートヴィル
独立以前の写真に違いない
いまも街のそこここに面影を残すが
ルブンバシは瀟洒な街だった
中央郵便局前の現チョンベ広場から撮った写真
RDC - Médard Kayamba Badye : "Lubumbashi a failli être britannique"
26/03/2014 à 12:31 Tshitenge Lubabu M.K.Diminuer

Une région riche en cuivre, des rivalités coloniales dont les Belges sortirent vainqueurs au début du XXe siècle, et Élisabethville était née. Un historien lushois revient sur cette épopée.
Professeur à l'université de Lubumbashi (Unilu), Médard Kayamba Badye, 65 ans, est un spécialiste de l'histoire économique et sociale du continent. Coauteur de l'ouvrage Lubumbashi, cent ans d'histoire, paru en 2013 aux éditions L'Harmattan, il explique comment les ambitions économiques et les rivalités entre le royaume de Belgique et l'Empire britannique ont conduit à la création d'Élisabethville, la future Lubumbashi. Et en quoi l'évolution de son peuplement est essentielle pour comprendre l'identité si singulière de la métropole katangaise.
jeune afrique : Dans quel contexte la création d'Élisabethville s'est-elle décidée ?
Médard Kayamba Badye : Tout a commencé avec la création du Comité spécial du Katanga, le CSK, en 1900. Il fallait en effet une structure mixte qui associe l'État indépendant du Congo (Créé en 1885, l'État indépendant du Congo était placé sous la souveraineté du roi des Belges. Sous la pression des Anglo-Saxons et de l'opinion publique, qui s'élevait contre le régime de travail forcé imposé par l'administration de Léopold II, ce statut est abandonné en 1908 au profit d'une annexion du Congo par la Belgique en tant que colonie) et la Compagnie du Katanga, société privée, pour mettre en pratique la politique de gestion du territoire et assurer la distribution des concessions minières et foncières. Son responsable, un général, est venu s'installer aux abords de la rivière Lubumbashi et d'une mine de cuivre qui existait déjà, à Ruashi. En 1906 fut créée l'Union minière du Haut-Katanga [UMHK], associant le CSK, Tanganyika Concessions Limited - la société du Britannique Robert Williams - et la Société générale de Belgique, principale banque du royaume.
En 1909, le futur Albert 1er [il devint roi des Belges en décembre de la même année, au décès de son oncle] visita la région avec son épouse Élisabeth. Elle donna son nom à la mine de Ruashi, qui devint Élisabethmine. Et lorsque la ville fut créée, en 1910, on la baptisa Élisabethville.
Comment s'est-elle développée ?
Dans une première phase, elle est peuplée par des non-Africains. Les Belges ne sont alors pas nombreux sur le terrain. Les Britanniques sont présents, en particulier Robert Williams, mais aussi d'autres étrangers d'origine européenne venant d'Afrique du Sud, surtout des Italiens et des Grecs. Quelle qu'ait été leur origine, ceux qui venaient d'Afrique du Sud étaient considérés comme des Britanniques par les Belges, qui, en réaction, décidèrent de favoriser une immigration plus importante vers le Congo, en particulier vers Élisabethville.
Avaient-ils raison de craindre à ce point qu'elle devienne britannique ?
Elle a vraiment failli le devenir. Si la prospection minière au Katanga avait repris peu avant 1900, c'était à l'initiative de Robert Williams, ami de Cecil Rhodes, lequel était déjà aux portes du Congo, en Rhodésie du Nord (l'actuelle Zambie) et voulait mettre la main sur toutes les mines de l'Afrique centrale. Les Belges ont donc toujours gardé en tête que les Britanniques avaient pour ambition de prendre le Congo.
Et qu'en était-il de la population indigène et africaine ?
La caractéristique de cette région du sud du Congo était sa très faible densité démographique, due aux ravages de la traite négrière. Il fallait donc faire venir de la main-d'oeuvre. Or les accords qui régissaient l'UMHK prévoyaient qu'elle achète des vivres aux colons britanniques qui, en retour, lui fournissaient la main-d'oeuvre qui manquait localement. Jusqu'à la fin des années 1920, le peuplement africain d'Élisabethville fut donc surtout constitué par les travailleurs que l'on faisait venir du Sud, c'est-à-dire des colonies britanniques - Rhodésie du Nord, Rhodésie du Sud (Zimbabwe), Nyassaland (Malawi) -, et un peu d'Angola.
Pourquoi s'est-on mis à recruter des Congolais venus d'autres provinces ?
À l'époque, on ne parlait pas d'Africains, mais juste de travailleurs.
Cette deuxième phase de peuplement, celle de la croissance de la ville, fut la plus importante. Alors qu'auparavant chaque province veillait jalousement sur sa main-d'oeuvre, le Congo belge a revu sa politique en la matière autour des années 1930, notamment parce qu'il recevait de gros investissements dans les secteurs de l'énergie, de l'eau et, surtout, des chemins de fer.
À l'époque, on ne parlait pas d'Africains, mais juste de travailleurs. Élisabethville s'est alors retrouvée organisée en trois grands secteurs : la "ville européenne", c'est-à-dire le centre-ville, les "cités africaines" et, enfin, les camps de travailleurs qui regroupaient la main-d'oeuvre de différentes sociétés, telles que l'UMHK et le chemin de fer Bas-Congo - Katanga (BCK).

Au début, ces travailleurs avaient des contrats de trois mois, donc ils venaient et repartaient. Puis la durée des contrats s'est allongée. Ils sont venus avec leurs femmes, se sont installés, ont eu des enfants. Mais avec la crise, à partir de 1940, l'Union minière a décidé de se séparer d'une bonne partie de ses travailleurs, qui ont dû quitter les camps pour s'installer dans les cités africaines, où, dès lors, tous les groupes ethniques se sont trouvés réunis. Et quand les activités ont repris, à la fin des années 1940, plutôt que d'aller les chercher ailleurs, c'est dans ce vivier que l'Union minière et les autres entreprises ont recruté les travailleurs dont elles avaient besoin. D'ailleurs, l'Union minière était qualifiée de tshanga-tshanga, c'est-à-dire "qui mélange", en swahili.

26 mars 2014

3月26日 マドンナの懐妊 Madonna enceinte

Le mercredi 25 mars 2014
6時、晴れ、24℃、65%」。

マドンナちゃん、来月中旬母親になるのか。お乳が張ってきたような気がする。
お乳がはってきたと思われる
マドンナちゃん
食欲も旺盛、元気な赤ちゃんの
予定日は4月18日(僕の推定)
エボラ出血熱がギニア南部で流行中だが、ギニア政府は流行の原因にコウモリをあげた。コウモリがビールスを媒介していると、コウモリの売買およびコウモリを食べることを禁じた。
エボラのビールスは患者との直接接触以外に、サル、コウモリなどが疑われているが確証はない。
最近のエボラ出血熱流行はウガンダ、RDCコンゴのオリエンタル州であった。ギニアとは数千kmも離れている。

南アメリカのプラチナ鉱山労働者のストライキは3ヶ月目に入っている。労働者側も必死だが、経営者側も傷が大きくなっている。アングロ・アメリカン社、インパラ社、ロンミン社対組合AMCU。全く話し合いがない。妥協点はないのか。
プラチナPtは南アが世界の3/4を生産している金属だ。既に価格が上がっているが、もっともっと高騰する可能性もある。得するのはロシアだけか。

「ペトロチャイナ」と通称される中国石油天然气集公司がチャド共和国から321日(土)12億ドルに上る罰金を課せられた。同国環境大臣によると南部ボンゴール盆地で石油を採掘中のペトロチャイナが、地下水汚染を引き起こしたというもの。
ペトロチャイナはアフリカ各地で原油採掘をしている。しかし、彼らのホームページでうたうようには環境に配慮していない云わば野蛮な開発をしているようだ。ペトロチャイナの反応に注目したい。無視するのか、素直に払うのか。僕は無視するだろうと思う。そして次回国家主席の訪問か何かを用意して本件を誤魔化すのだろう。
ペトロチャイナのロゴ
Tchad: amende pour une compagnie pétrolière chinoise
Dernière mise à jour: 25 mars, 2014 - 17:25 GMT

Le pétrole est une la principale source de revenu du Tchad.
Le ministère tchadien de l’Environnement vient d’adresser une amende de plus d’un milliard de dollars à la China National Petroleum Corporation pour les dégâts causés par ses activités.
1 milliard et 200 millions de dollars (870 millions d’euros). C'est précisément le montant de l'amende que le ministère tchadien de l'Environnement a notifié à la China National Petroleum Corporation (CNPC).

Impliquée dans l'exploitation pétrolière au Tchad depuis 2009 la CNPC est présente dans le sud du pays, dans la zone du bassin de Bongor.
L'année dernière, après une mission d'inspection du ministère du pétrole sur le site de Koudalwa, les activités de la CNPC avaient déjà été suspendues pour « violation flagrante des normes environnementales ».
La mesure avait alors été levée au début de l'année 2014.
Mais la notification du ministère de l'Environnement transmise à la CNPC en date du 21 mars, précise que les mauvaises pratiques d'exploration des hydrocarbures et de gestion des déchets n'ont pas cessé.
Des pratiques douteuses

Du brut s'est déversé lors de l'exploitation mais il a été enfoui dans des fosses à même le sol, sans aucune précaution, entrainant notamment une contamination des nappes phréatiques.
Les boues de forages, déchets hautement toxiques, ont également été sommairement placées dans des fosses à ciel ouvert, provoquant une contamination des eaux souterraines et de surface.
Des carrières de 3 à 4 mètres de profondeur (la norme requise est de 1m50), ont par ailleurs été creusées lors de l'exploitation sans être sécurisées, ce qui représente un danger permanent pour la population et la faune locale.
Par ailleurs les employés recrutés pour effectuer des opérations de nettoyage, travaillent sans équipement adapté et risquent ainsi leur santé.

Les salariés de la CNPC ont d’ailleurs observé il y a quelques semaines un mouvement de grève pour protester contre leurs conditions de travail et pour réclamer une augmentation de leurs salaires.

3月25日 オバマ法は逆効果か RDC : les effets pervers de la "loi Obama" au Kivu

Le mardi 25 mars 2014
6時、2465

20107月に成立した米国の「オバマ法」がRDCコンゴの北キヴ州では逆効果であるというのが下記の記事、とくに引用された英国のエキスパート、ベン・ラドレイBen Radley氏の見解である。紛争鉱物資源取引の透明性を要求し、紛争の資金源を断つ、それが「オバマ法」の目的だ。この「オバマ法」に則って透明性を確保するべきだが、そのインフラがないために、キヴ州(南キヴと北キヴがあるのだが纏められている)の鉱山関係者(仲買人、鉱山労働者)が失業に追いやられ、彼らは食うために反政府軍に加担して鉱山開発を行い、生産物が密輸出される、さらに中には直接反政府軍の兵士になってしまった例もあるというのである。
一見、かもしれない、そのとおり逆効果だと思ってしまう。RDCコンゴは「オバマ法」を一応当然の要求だとして透明性、トレーサビリティを保証するシステムを用意している。CEEC(貴金属検査機関)の改革がそれである。カタンガ州では州都ルブンバシだけでなくカレミにも事務所があるし、南北キヴ州のブカブ市やゴマ市にも事務所がある。
問題は「インフラがRDCコンゴにない」のではなく、実はCEECがあっても、そこを通して正式に輸出するのは大手企業だけだということである。機械を使用しない手作業の個人掘削で「採集」された鉱物は闇から闇に密輸出されている。
これは「オバマ法」以前からの話である。問題は「オバマ法」があろうがなかろうがRDCコンゴの貴金属、レアメタルは近隣諸国、特にウガンダ、ルワンダ、タンザニアから世界各国に輸出されているのである。「オバマ法」が厳しく適用されるべきはこれら近隣諸国ではないか。
RDCコンゴが正式に透明性を確保して貴金属やレアメタルを輸出するためには、国境通関だけでなく、税制、官吏の給与も問題だろうし、根はとても深いのである。
反政府軍や武装強盗集団に若者を参加させないためには、国家経営から問題になる。「オバマ法」が逆効果だとは僕は思わない。
オバマ米大統領
RDC : les effets pervers de la "loi Obama" au Kivu
24/03/2014 à 17:05 Par Trésor  『Jeune Afrique』誌電子版

Dans le documentaire "Obama's Law", dont la sortie est prévue en septembre, une équipe de chercheurs, spécialisés sur les Grands Lacs, tente de démontrer "l'impact négatif" de la "loi Obama" sur les minerais de conflit dans le Kivu. Leur démarche : donner la parole aux Congolais.
Que faire pour mettre fin au cycle interminable des conflits armés dans l'est de la RDC ? À cette question cruciale, le Congrès américain a adopté en juillet 2010 la section 1502 de la loi Dodd-Frank de réforme de Wall Street et de protection du consommateur (Dood-Frank Wall Street reform and consumer protection act). Une disposition qui oblige les entreprises américaines à divulguer chaque année la provenance de leurs matières premières pour décourager l'exploitation et le commerce des minerais issus des zones contrôlées par les groupes armés dans le Kivu.
Seulement voilà, trois ans après son adoption, cette obligation légale américaine dite "loi Obama" en RDC ne semble pas avoir produit tous les effets escomptés, selon le chercheur britannique Ben Radley, producteur du documentaire "Obama's law" en cours de tournage. Pour lui, "la 'loi Obama', adoptée sans consulter en amont la société civile du Kivu et des experts congolais, est déconnectée des réalités du terrain".
Bande annonce de "Obama's law".

Le problème du Kivu est beaucoup plus complexe. On ne peut pas le réduire à la question des minerais de conflit.
Ben Radley, producteur du documentaire "Obama's law"
"Embargo de fait"
Ben Radley et son équipe reprochent notamment aux stars-activistes qui ont mené des lobbys aux États-Unis et en Grande-Bretagne de ne s'être limités qu'à une "approche concentrée sur les minerais de conflit", sans tenir compte des "perspectives congolaises" sur la question. "Le problème du Kivu est beaucoup plus complexe. On ne peut pas le réduire à la question des minerais de conflit et laisser de côté les implications politiques de la crise", confie Ben Radley à Jeune Afrique.
"Au début de l'application de la loi Dodd-Frank en RDC par exemple, il n'existait aucun système de traçabilité dans le pays. Conséquence : sans le vouloir, 'Obama's law' a entraîné un embargo de fait sur les minerais du Kivu. De nombreux comptoirs ont fermé et beaucoup de creuseurs ont ainsi rejoint les milices locales pour tenter de survivre, armes à la main sur le dos de la population civile", ajoute-t-il.

"La loi Dodd-Frank a donc eu un impact négatif sur le terrain : augmentation de la fraude et de la contrebande – surtout concernant l'or, plus facile à être exploité et commercialisé illégalement, détérioration des conditions de vie de nombreuses familles qui ne dépendaient que de l'exploitation artisanale des mines, …", accuse Ben Radley qui a décidé, lui, dans son documentaire, de "donner la parole aux premiers concernés, les Congolais".

La sortie du documentaire "Obama's law", financé notamment par le gouvernement suisse, est prévue vers le mois de septembre. "Depuis février, nous avons terminé le tournage au Congo par l'étape de Shabunda. Nous avons pu suivre certains jeunes, creuseurs avant la 'loi Obama', aujourd'hui devenus miliciens des Raïa Mutomboki [un de groupes armés locaux encore actifs dans le Kivu : voir notre carte interactive, NDRL]", explique Ben Radley. Le tournage se poursuit par ailleurs aux États-Unis où l'équipe d'"Obama's law" continue à suivre les différents activistes et lobbyistes pour "démontrer la déconnexion entre les plaidoyers faits à Washington et les réalités du terrain dans le Kivu".
En attendant, à Goma, s'est ouverte le 24 mars la deuxième conférence nationale sur les mines en RDC. L'occasion pour le gouvernement congolais de rassurer ses partenaires internationaux sur la "gestion durable et transparente des ressources naturelles de la RDC post-conflit". Car, à ce jour, "seuls 5 % de quelque 800 à 900 sites miniers dans l'est de la RDC sont certifiés", rappelle Ben Radley qui travaille depuis 2009 sur les questions liées à la gouvernance des ressources naturelles et l'exploitation minière artisanale dans la région des Grands Lacs.

24 mars 2014

3月24日 フォステム校をモデルに教育里親制度を発足させたい pour les élèves de l'école Fostem (Kipushi)

Le lundi 24 mars 2014
6時、晴れ、23℃、70%。

「日本カタンガ協会」日本メンバーのTYさんが、「フォステム校支援基金口座管理表」を作ってくれました。
誰でもがアクセスできます。まだ、入金はありませんが、僕の日本の口座に寄付があり次第この表に書き込んでいきたいと思います。
この口座の資金から奨学金の原資にする予定である。World Visionと同じような教育里親制度を育成していきたい。勿論World Visionを反面教師として、経費のかからない、即ち善意のみなさんのお金が有効に使われるようにしていく。
フォステム校に限らないが、子供たちが勉強を続けて行くのは、この国では至難なのである。小学校に、中学校に20歳を過ぎて入学する「子供」もいる。怠けたいからではない。お金が続かないから途中で退学し、退学してはお金があるときにまた入学しなおすだ。
このプロジェクトが大きくなるように、みなさま、よろしくお願いいたします。

米国のミシシッピ州とカリフォルニア州で母親から感染しエイズ・ビールスを持って生まれてきた乳児が、抗エイズ治療薬の早期大量投与によって、エイズ発症もなく、完全にHIV反応がマイナスになったそうだ。アフリカはエイズ患者がまだまだ多い。お金持ちの米国で乳児にエイズの危険がなくなったとしても、アフリカにその「実験」の成果が及ぶのはずいぶん先のはなしであろう。

カイロの南250kmのアル・ミニャ県の裁判所で去年親モルシ派のデモに参加したイスラム同胞団のメンバーたち529人に死刑が宣告された。起訴された545人中16人だけが無罪釈放だった。また死刑宣告はあったが逃亡中が376人いる。第一審とはいえ、無闇と死刑を宣告したものである。
モルシ大統領が軍部によって倒されたのは去年201373日、そのときから1400名以上が軍部に殺されている。
「同胞団」憎しといっても、裁判といい、デモ弾圧といい、軍部のやり方は度を越している。国際社会も犬の遠吠え、非難はするものの具体的制裁もない。いってみれば見て見ぬふりをしている。民主勢力が軍部を動かしたのか、軍部が民主勢力を利用したのか、今となってみれば後者の動きが13年夏のエジプト「反革命」ということになる。そう僕は思う。
追い落とされた大統領モルシ氏支持のデモ
(エジプト)
Egypte : 529 pro-Morsi condamnés à mort
Dernière mise à jour: 24 mars, 2014 - 08:38 GMT BBC Afrique

Les manifestants pro-Morsi descendent régulièrement ans les rues au Caire pour exiger le retour de leur leader au pouvoir.
Un tribunal égyptien a condamné à mort lundi 529 partisans du président islamiste Mohamed Morsi destitué par l'armée en Juillet 2013.
Les sources judiciaires qui annoncent cette décision précisent que seuls 153 des condamnés sont détenus, les autres étant en fuite.
Selon l’un des avocats de la défense Ahmed al-Sharif qui envisage d’interjeter appel de ce jugement de première instance, les accusés sont pour la plupart condamnés pour meurtre.
Cependant 16 parmi eux ont été acquittés.
Depuis que l'armée a destitué M. Morsi le 3 juillet, 1.400 de ses partisans ont été tués dans la répression et plusieurs milliers d’autres emprisonnés.

Près d’un milliers de membres de la confrérie des frères musulmans sont poursuivis pour les violences perpétrées mi-août dans le gouvernorat d'al-Minya, à 250 kilomètres au sud du Caire, dans le plus important procès depuis le début de la répression des pro-Morsi.

23 mars 2014

3月23日 エボラ出血熱が西アフリカのギニアで発生 Guinée : une épidémie de fièvre Ebola fait au moins 59 morts

Le dimanche 23 mars 2014
7時、快晴、23℃、70%。カタンガ晴れ(一点の雲もない)。

7時、ネット接続不調。

今日からアルジェリア大統領選挙が始まる。ブートフリカ現大統領が4選を目指す。軍部が健康が優れないブートフリカを押して敢えて出馬させたといわれている。リタイアしてもらっては軍部の既得権が失われると考えているのだ。何故若い溌剌とした幹部がでてこないのだろうか。イスラムに凝り固まった若者ならいるが、視野の広い理想主義で国際派の若者は政治を目指さないのかもしれない。これは政治哲学の貧困現象にほかならない。そしてそれはアルジェリアに限ったことでも、アフリカに限ったことでもない。日本を含めた世界中の貧困である。

エボラ出血熱はRDCコンゴで初めて発生した病気といわれている。「エボラEbola」はRDCコンゴの川の名前からとられた。ビールスが原因であるが、予防も治療もまだ出来ていない。これまでRDCコンゴ、ウガンダ、エチオピア、ケニア等で患者が出、死亡者が出ていた。罹患者1800人のうち1200人が死んでいる。
今回2月初めからギニア国南部で発生したビールス性出血熱がフランスのラボで分析結果21日(金)エボラと判明した。既に80名の患者のうち59名が亡くなっている。
国境を接するリベリア国(首都モンロビア)でも、ギニア側に行かないように住民を指導している。
国境なき医師団MSMは現地で患者の隔離に動いている。エボラ出血熱はしかし患者との接触を避けることしか流行を防ぐ手段がない。要はまったく手のつけようがない疫病である。これから病気がどう広がるのか、いつの間に収束するのか注意が必要だ。
エボラ患者を診察する医者
Guinée : une épidémie de fièvre Ebola fait au moins 59 morts
L'épidémie de fièvre qui sévit depuis le 9 février dans le sud de la Guinée est due au virus Ebola et a fait au moins 59 morts, ont annoncé samedi les autorités guinéennes.

 Des examens faits à Lyon, en France, ont permis d'établir qu'il s'agit de la fièvre Ebola, a indiqué à l'AFP  le chef de la division prévention au ministère guinéen de la Santé, le Dr Sakoba Kéita.

"Dans la journée d'hier (vendredi) nous avons eu les premiers résultats venus de Lyon qui nous ont annoncé la présence du virus de la fièvre Ebola comme étant à l'origine de cette flambée de fièvre fébrile en Guinée forestière (sud, ndlr) principalement", a-t-il déclaré.

Le ministère guinéen de la Santé n'était pas en mesure jusqu'à présent de préciser la nature de la fièvre qui frappe le sud du pays.

L'épidémie, qui touche notamment "les préfectures de Gueckédou et de Macenta (...)  a fait au moins 59 morts sur 80 cas recensés par nos services sur le terrain", a indiqué le dr Kéita à  l'AFP.

Le virus Ebola se manifeste par une poussée de fièvre, des diarrhées, des vomissements, une fatigue prononcée et parfois un saignement. Il figure parmi les plus contagieux et mortels chez l'homme, selon l'Organisation mondiale de la santé (OMS). Il n'existe aucun traitement ni vaccin.

Les autorités guinéennes peinent à faire face à l'épidémie.

 "Nous sommes débordés sur le terrain, nous luttons contre cette épidémie avec les moyens du bord, avec le concours des partenaires (OMS, MSF, UNICEF, etc..)", a reconnu samedi soir le Dr Keita.

- Intervention d'urgence -

L'ONG Médecins Sans Frontières (MSF) a annoncé le lancement d'une intervention d'urgence dans le pays. 

"Vingt-quatre médecins, infirmiers, logisticiens et spécialistes de l'hygiène et de l'assainissement sont déjà sur place alors que d'autres personnes vont renforcer l'équipe au cours des prochains jours", a précisé MSF dans un communiqué.

En collaboration avec le ministère de la Santé guinéen, "MSF a mis en place une structure d'isolation des cas suspects à Guéckédou, et se prépare à faire de même à Macenta", deux localités de la région de Nzérékoré (Sud), a ajouté l'ONG qui recherche aussi les personnes susceptibles d'avoir été infectées lors de contacts avec des patients.

Environ "33 tonnes de matériel" vont être acheminées  par deux avions au départ de la Belgique et de la France, a-t-elle ajouté.

De leur côté, les autorités guinéennes ont décidé  le "traitement gratuit de tous les malades dans les centres d'isolement" et le "recensement de toutes les personnes qui ont eu des contacts directs avec les malades décédés et ceux présentant les signes" de la maladie.

Le gouvernement a invité les populations à la vigilance et à prendre les mesures préventives adéquates. Il a demandé aux services de santé de prendre toutes les dispositions nécessaires pour contenir la maladie et signaler tout cas suspect aux autorités sanitaires.

Le virus, qui provoque des "fièvres hémorragiques" tire son nom d'une rivière du nord de la République démocratique du Congo où il a été repéré pour la première fois en 1976, alors que ce pays s'appelait le Zaïre. Depuis, il a provoqué la mort d'au moins 1.200 personnes pour 1.850 cas avérés.

Il se transmet par contact direct avec le sang, les liquides biologiques ou les tissus des sujets infectés.

On juge que les rituels funéraires, au cours desquels les parents et amis sont en contact direct avec le corps du défunt, jouent un rôle important dans la transmission, mais on sait aussi que le virus Ebola peut se transmettre par manipulation d'animaux porteurs du virus, vivants ou morts.

L'ambassade de France à Monrovia, capitale du Liberia voisin, a conseillé aux Français de ne pas se rendre dans les zones touchées en Guinée ni dans les zones du nord du Liberia proches de la frontière entre les deux pays.

3月22日 児童労働:ブルキナのゴールド・ラッシュ Les enfants mineurs, victimes de la ruée vers l'or au Burkina Faso

Le samedi 22 mars 2014
6時、晴れ、22℃、72.5%。久しぶりに朝から晴れた。曇りの日も一日曇りや雨というのは珍しいけれども、朝から晴れると明るくて気持ちがいい。

裏庭の大根を使って煮物を作ってみた。鶏肉とニンジンと大根だ。果たしてまともな煮物ができるだろうか。この大根の種は日本から持ってきたもの。長さ30センチほどの大根が出来ていた。大根の葉は食べられるような気もするが知らないので捨てた。漬物にするのかな。僕は漬物が嫌いだからなぁ。
大根の煮物は成功であった。

ヨハネスバーグにネルソン・マンデラ小児病院を建てる。工事は既に始まった。完成は2017年。小児科専門病院はアフリカ大陸で3番目。ナイロビ、カイロに続く。病院は私立だが非営利法人となる。子供たちの患者は南アだけではなく南部アフリカ諸国が対象になる。RDCコンゴもSADCの一員なので、特にカタンガ州はこの病院の恩恵に浴することとなろう。

ブルキナ・ファソの首都ウアガドグOuagadougouから車で1時間のノブシンNobsin村でゴールド・ラッシュ。ユニセフの推計ではブルキナ全体で50万から70万人の若者たちが鉱山で働いている。特に学齢または学齢にも達しない子供たちが働いている。
しかし、下記の記事の末尾で述べられているように、アフリカの金鉱山について一般的にみられることである。
ブルキナで工業的に開発されている金の総生産は年間32トンだそうだ。子供たちを含めた機械によらない個人掘削で得られた金は1000キロ(1トン)だとは鉱山省の数字である。それがたとえ倍の2000kgだとしてもたいしたことはない。しかし、一日の労働が1000円から2000円になるというとブルキナでは大きな収入になる。家族総出で働いているのだろうから、一家では馬鹿にできない額になる。
DRCコンゴでは金鉱山だけではない、。ダイヤモンド鉱山やレアメタルの鉱山で子供たちが働いている。子供は近くの学校に行っている場合もあるし、学校に行けない場合もある。
ユニセフやNPOの介入で解決出来る問題ではない。貧困対策を国としてたてないとどうしようもないと僕は思う。なにしろ子供たちは家族にとって重要な「稼ぎ手」なのだから。
金鉱山で働く子供たち
家族にとって彼らは重要な「稼ぎ手」である

Les enfants mineurs, victimes de la ruée vers l'or au Burkina Faso
Certains n'ont pas 13 ans, mais ils s'enfoncent crânement dans les boyaux de fortune: au Burkina Faso, la fièvre de l'or n'épargne pas les enfants, qui risquent leur vie pour s'assurer un avenir, dans cet Etat sahélien pauvre.

Entre un demi-million et 700.000 adolescents ou pré-adolescents burkinabè travaillent dans le secteur minier, estime l'Unicef.

Le phénomène est massif dans l'un des pays plus pauvres au monde, où 60% des 17 millions d'habitants ont moins de 25 ans. L'or est le principal produit d'exportation, assurant 20% de son PIB.

A Nobsin, un site clandestin situé à une heure de route de Ouagadougou, des centaines de garçons, mineurs ou jeunes adultes, s'affairent autour d'une multitude de petits trous rectangulaires, rassemblés sur quelques centaines de mètres carrés.

Certains descendent à 20 ou 30 mètres de profondeur casser la roche. Leurs voix étouffées et le bruit des coups sourds remontent difficilement à la surface. Leurs équipiers se relaient pour hisser les cailloux récoltés dans des bidons éventrés. D'autres cassent les pierres remontées en espérant y trouver de l'or, tamisent...

Tous ont la peau maculée de boue ou de poussière jaune, selon qu'ils travaillent sous terre ou à l'air libre. La respiration est pénible dans ce paysage aride et venteux.

Assis au bord d'un boyau, Joël Sawadogo, 13 ans, s'apprête à descendre, une ridicule lampe en plastique à l'effigie de Dubaï coincée par un élastique autour du crâne. Les pieds nus, ce petit bonhomme, uniquement vêtu d'un short bleu, dit aspirer à "un travail moins pénible".

"En bas, c'est très humide", raconte-t-il en grattant son bras sale. "Mais je pense surtout à ce que je pourrais gagner", poursuit Joël, mineur depuis deux ans déjà. Bien loin de ses rêves, son salaire est misérable : "parfois 5.000" (francs CFA, 7,5 euros) la journée, "parfois 10.000" (15 euros). Souvent rien.

Hamidou, très gringalet mais qui dit avoir 15 ans, s'enlève une écharde du pied, hagard. "Je n'ai pas peur", lance ce fils d'agriculteur d'un village voisin, venu lui aussi chercher fortune. Car "chez (lui), on cultive, mais on ne gagne pas", déclare-t-il, épuisé.

D'où la nécessité d'invoquer les "génies" qui "distribuent l'or", affirme son collègue Issiaka, 19 ans, orpailleur depuis 3 ans. "Si tu ne vas pas voir les sorciers, tu n'en trouveras pas", observe-t-il.

Tous rêvent d'un "trou", du trou qui regorgerait de métal, qui ferait d'eux des hommes riches. Qu'importent les risques pris. Car les mines clandestines tuent. Début décembre, un éboulement a fait 28 victimes, dont 14 morts, dans l'ouest du Burkina Faso.

- Peur -

"Ici, le sol est solide. Mais parfois la terre est très fragile. On le sent quand on pique. Le trou se fissure. Ca fait peur", témoigne Frédéric Tindiébeogo, 23 ans, dont le t-shirt noir est marqué de  l'inscription +It's only funny when someone gets hurt+ (c'est seulement marrant quand quelqu'un se blesse), qu'il ne comprend pas, mais qui résonne étrangement prémonitoire.

Les enfants, que l'on envoie au fond des boyaux du fait de leur petit gabarit, sont alors les premières victimes. Un quart d'entre eux connaissent des accidents, déplore David Kerespars, responsable de la fondation Terre des Hommes au Burkina Faso, active sur une douzaine de zones d'orpaillage, dont Nobsin.

La veille de la venue de l'AFP sur ce site, cinq mineurs ont été blessés, sans précision d'âge, tandis qu'un homme y est mort cette année, narre Ouinin Ouédraogo, 50 ans, l'un des doyens, pour qui le "désespoir" pousse les enfants dans les mines.

Les conséquences sont catastrophiques. Déscolarisés, ces jeunes orpailleurs, dont une très grande majorité travaille "plus de 10 heures par jour", souvent "en plein soleil" et "entourés de fûts de cyanure" ou de mercure, mettent leur santé en péril, déplore Marc Rubin, le représentant de l'Unicef au Burkina Faso.

Pire, les enfants forçats sont exposés à l'exploitation sexuelle, la consommation d'alcool ou de drogues, regrettent l'ensemble des acteurs.

"Nous avons besoin d'un élan national" pour contrecarrer le phénomène, constate M. Rubin. En 2013, Terre des hommes a réussi à retirer 2.000 enfants des mines burkinabè, notamment en les scolarisant ou en les formant à un métier, selon son responsable.

Au total, 21.000 enfants ont été sortis des mines entre 2010 et 2013, d'après l'Unicef. Mais le travail encore à accomplir reste "énorme", reconnaît son responsable.

Interrogé par l'AFP, le ministre des Mines Salif Kaboré évoque la création prochaine d'une "unité chargée de la sécurité des sites miniers", chargée notamment d'empêcher le travail des enfants dans les 600 exploitations clandestines répertoriées.

Près d'une tonne d'or a été extraite de façon artisanale des sous-sols burkinabè en 2013, selon le ministre, officieusement le double, contre 32 tonnes produites industriellement.

L'orpaillage existe dans "tous les pays producteurs d'or", constate-t-il. "Ce serait donc utopique de dire qu'on va l'interdire. Mais il faut essayer de l'encadrer." Pour accorder un autre futur aux enfants burkinabè.

22 mars 2014

3月21日 ケニア:一夫多妻を合法化 Le Kenya légalise la polygamie

Le vendredi 21 mars 2014
6時、曇り、22℃、72.5%。

電気はやはり有難い。RDCコンゴでは国民の10%程度しかその恩恵に浴していない。都会を別とすれば、地図上で電気があるところを探す方が易しいことだろう。

寒い。平熱なのに寒い。

マリ北部のフランス軍の「サーバル猫作戦」はなお継続している。相手はイスラミスト「マグレブ・アルカイダ」、日本人が多く犠牲になったアルジェリアのイン・アメナス天然ガス基地襲撃を主導したモクタール・ベルモクタールのあとを襲った義父ウルド・ハマハを最近殺したそうだ(フランス共和国国防大臣ル・ドリアン氏Jean-Yves Le Drian氏談)。

ソマリア(首都モガディシオ)で18日(火)路上検問所が自爆テロにあったが、そのテロの犯人はノルウェー国籍の60歳。ソマリアのテロ集団シェバブにどのようにして参加したかは知らないが、リクルートされるのは若者に限ったことではないようだ。ノルウェー人といっても元々イスラム圏出身でノルウェーに帰化した男だ。ノルウェーにとってはいい迷惑だろう。
ソマリアに限らず、イスラミストのテロになりたくて、あるいは戦闘員になるためフランスからもシリアに多くの若者が行っている。多くはマグレブから移民してきた人々の子たちである。

ケニアで一夫多妻制が合法化される。既に国会をとおり大統領が署名すれば法律が成立する。一夫多妻であって、多重婚ではない。イスラムのように妻の数に制限がない。何人の女性と結婚しても、女性は妻である。全ても妻が平等に扱われる。
ケニア国会の女性議員は大いに不満、不賛成で投票を拒否したそうだ。今回の法改正では本妻また第一妻という考え方がない。夫は妻に相談せず新しい妻を娶ることが出来る。
一夫多妻はアフリカの伝統だといわれればそれまでだが、離婚や夫の死亡の際の財産分けはかなり平等としても、性の平等からいうと、では何故一妻多夫はいけないのだろうか。そういう伝統の民族もある。ケニアの婚姻法改正は片手落ちだと僕は思う。
南アフリカ共和国のズマ大統領も
ポリガミー(一夫多妻)で有名である
5人の妻と18人の子供がいる

Le Kenya légalise la polygamie
Dernière mise à jour: 21 mars, 2014 - 15:43 GMT BBC Afrique

Si la proposition devient loi, l'âge minimum pour se marier sera fixé à 18 ans et ce pour toutes les cultures
Au Kenya, les députés femmes ont claqué la porte lors d’une session parlementaire à cause d’une loi sur la polygamie.
Les élus hommes ont voté pour que la nouvelle législation sur le mariage autorise les hommes à épouser autant de femmes qu’ils le souhaitent sans consulter leur première femme.
Ce projet de loi formalise en droit kényan des lois coutumières notamment la polygamie.
Traditionnellement, les premières épouses sont supposées donner leur consentement préalable.
Mais les élus hommes ont décidé de se passer de cette clause au grand dam de leurs collègues femmes.
Celles-ci surpassées en nombre n’ont pu stopper la loi qui doit maintenant être signée par le président pour entrer en vigueur.
"C'est l'Afrique"

Le député Samuel Chepkong'a, qui a proposé l’amendement, dit que lorsque qu’une femme se marie sous la loi coutumière, elle sait que l’union est ouverte à la polygamie.
D’après lui, la consultation est donc inutile, dans des propos rapportés par le Quotidien kényan la Nation.
Son opinion est partagée par le député Mohammed Junet qui explique «Quand vous épousez une femme africaine, elle doit savoir que la deuxième va suivre, puis la troisième…c'est l'Afrique" a-t-il ainsi déclaré au site web Capital News.
Des déclarations qui ne sont pas du goût des élus qui estiment qu’une telle décision affecte toute la famille y compris la situation financière des autres épouses.
"En tant qu’homme il vous incombe d’avoir le cran d’admettre que votre femme et votre famille ont le droit de savoir”, a jugé l’élue Soipan Tuya, la réprésentante des femmes pour le département de Narok.
Cela faisait des années que la nouvelle loi sur le mariage était en discussion et certaines des propositions initiales ont été abandonnées.
Des propositions pour assurer l’égalité des droits de propriété et d’héritage ont été altérées.
Une femme aura droit à 30% des biens matrimoniaux après le décès ou le divorce.
Selon les lois actuelles au Kenya, une femme doit prouver sa contribution à la richesse du couple.