26 janvier 2015

1月26日 インターネット制限 (DRCコンゴ) accès internet sanctionné par autorité congolaise (RDC)

今日26日(月)現在、先週20日(火)から既に7日間ネットアクセスができません。
僕のように携帯会社(Vodacom、Airtelなど)のモデムでネット接続は不可能。
やっと24日(土)からサイバーカフェでネットが使えるようになりましたが、
facebookなどはアクセスできないようにされています。
SMSもつかえません。

僕の健康状態は大丈夫です。
手術はしない予定です。

改正選挙法が国民の反対で流れたのに、19日のデモ鎮圧で40名以上が
キンシャサで殺された様子で、その画像がYoutubeなどで流れ、治安が悪化するのが
怖いのでしょう。

言論統制は困り者です。

たなべ







19 janvier 2015

ハラレ/ダーバン紀行5 カウチサーフィング voyage pour Harare/Durban, CouchSurfing

ハラレ/ダーバン紀行5
カウチサーフィング

WikiによるとカウチサーフィングCouchSurfingは「インターネット上の無料国際ホスピタリティー・コミュニティーであり、現在世界で最も大きなホスピタリティー・エクスチェンジ・ネットワークである」と書かれている。

初めてこのシステムを知ったのは、数年前に遡るが、ネットで日本人の旅行者が南キヴ州の州都ブカブでホストの家に泊めてもらったという記事を読んだときである。ホストはコンゴ人だった。興味が沸いてメンバーになった。僕の家に旅行者を泊めてもいいと考えたからである。クリスチャンのベッドを提供してもいいしサロンで寝てもらってもいい。

ところが、RDCコンゴにビジネスではなく単なる観光旅行者で雇用という人は極めて少ない。したがってこれまでホストになってくれというメイルを貰ったのは数えるほどしかない。中には自称大学教授だという英国女性で、メイルを頻繁にくれたのはいいが、なにやら宗教団体の宣伝をする女性がいた。予定を訊いても要領をえない。面倒なのでやりとりを断ったれいもある。

一昨年12月、イタリア人ピエールルイジ君からホストを頼むとメイルがあった。1月中旬ならいいよと快諾したが、コンゴのビザが取れず、またイタリア大使館からコンゴ入りは気をつけろと云われて躊躇してしまった。ザンビアのキトウェまで来てRDCコンゴを回避、マラウィ、タンザニア、ルワンダ、スーダン、エジプト等を経由して今自国に帰っている。僕のfacebook「友達」になっだ青年だ。
キトウェはコンゴ国境カスンバレサから車で1時間半の距離しかない。ピエールルイジがキトウェで泊まっていたのがパオラさんの家だ。なんと3ヶ月もいたそうである。そのパオラさんの家で彼に会った。モロッコからアフリカに入り、西アフリカ、中央アフリカを経て南アまで南下してから北上、RDCコンゴも制覇しようと企図していた。

パオラさんもカウチサーフィンの仲間だ。彼女の家はキトウェ市の中心にあってなん部屋もある大邸宅である。12月は近くのホテルにとまったが、1月コンゴに帰るときに初めて僕たちも留めてもらった。サーフィン初体験だった。パオラさんはとても気さくでいかにもイタリア人だし、イタリア料理が上手い、旨い。勿論僕らも料理や皿洗いの手伝いをする。居候の常識だろう。娘さんのタミカちゃんとも仲良くなった。その後去年8月も、今年1月初めも彼女の家に泊めてもらった。まだ長居をしていないが、パオラさんのところなら週単位で泊まってみたい。気が置けない。
パオラさんには去年マドンナ(ロートワイラー)の仔犬を贈った。エリーという名をもらって元気にしている。マドンナの子で幸せにしていると思われるのは彼女だけだ。あとの子4匹は哀れな運命を辿っている。
パオラさんとエリーちゃん(8ヶ月)
去年の年末の休暇にはヨーロッパに行く予定だった。クリスチャンのビザが取れなかったので南アのダーバンに行き先を変更した。ビザを断られる前にカウチサーフィンでブラッセルとパリのホスト先を10月から探した。丁度クリスマスのときの欧州滞在になるのでなかなか干すと先がみつからなかった。クリスマスは家族と一緒に過ごすのがヨーロッパだから、そこに他人が入るのは難しい。シェンゲン・ビザ取得のためにはキャンセル可能なホテルをネットのBooking.comで予約していた。それでも数週間探して、ブラッセルからもパリからも独身で仕事の関係か自宅を離れない仲間から幾つか承諾の返事をもらった。結局、欧州には行かないことにしたが、承諾してくれたホストたちとはfacebookの「友達」になった。

ダーバンでもホストを探したが無理だった。


ハラレは記述の通りハウスさんがホストになってくれた。ハウスさんともパオラさんとも生涯の友だちになれそうだ。
ハウスさん
やはりラグビー選手だ

1月19日 フランス国歌は寛容とは相容れない hymne national français est contre la tolerance

Le lundi 19 janvier 2015
6時、晴れ、24℃、50%。

カテーテルを留める位置を左大腿部に移した。同じ位置に長く留めていると絆創膏でかぶれる。しかし、このカテーテル、いつ外せるのだおるか。
カテーテルKatheterというは医療用語でドイツ語から来ていることを知った。医学ではなおドイツ語の名残が日本にまだあるのだなぁと思う。フランス語はcathéterカテテル。

今日ルブンバシでは選挙法改正反対、憲法改正反対のデモがあるようだ。学校は休校になっている。不測の事態を避けるためだ。僕のいるキプシは通常の日とかわらない。隣の小学校では相変わらず子供たちがはしゃいでいる。
キンシャサではデモ隊がつぶされ、暴徒と化して商店を襲撃したり駐車してあった車に火をつけたようである。

フランスでは小学校で国歌ラ・マルセイエーズをもっと教えるようにと担当大臣の勧告が出るようだ。歌詞が残酷で歌いたくないといったフランス人の友だちがいる。確かにフランス革命の残忍な言葉が出てくる国歌だ。この国歌は暴力的で殺伐、僕も歌いたくない。今、叫ばれている「寛容tolérance」とは相容れない。

Allons enfants de la Patrie,
Le jour de gloire est arrivé !
Contre nous de la tyrannie,
L'étendard sanglant est levé,
L'étendard sanglant est levé,
Entendez-vous dans les campagnes
Mugir ces féroces soldats ?
Ils viennent jusque dans nos bras
Égorger nos fils, nos compagnes !

行こう 祖国の子らよ
栄光の日が来た!
我らに向かって 暴君の
血まみれの旗が 掲げられた
血まみれの旗が 掲げられた
聞こえるか 戦場の
残忍な敵兵の咆哮を?
奴らは我らの元に来て
我らの子と妻の 喉を掻き切る!

Aux armes, citoyens,
Formez vos bataillons,
Marchons, marchons !
Qu'un sang impur
Abreuve nos sillons !

武器を取れ 市民らよ
隊列を組め
進もう 進もう!
汚れた血が
我らの畑の畝を満たすまで!

BBCKolma Dumor賞を創設したのいうので何だろうと思った。Dumor氏は去年1月心臓麻痺で41歳の若さで突然死したガーナ人ジャーナリストだということである。事件で犠牲になったのではない。BBCロンドンでアフリカ政治経済の番組を担当していた。人気があったようだが、何故彼の名を冠した賞を創設して名を残すようにしたのか真意がわからない。故人の家族が作ったのでも、彼が生前基金を持っていたということもなさそうだ。
それともBBCの大キャスターを知らなかったのは僕だけなのだろうか。
Kolma Dumor氏
La BBC lance prix Komla Dumor
Le 19 janvier 2015

Komla Dumor,lors de ses obsèques
Komla Dumor, âgé de 41ans était un journaliste ghanéen exceptionnel, qui a marqué son auditoire notamment au Ghana, sur Joy FM, en Afrique, dans le monde et à la BBC. C'est en 2007 que le journaliste ghanéen est arrivé à la BBC.
Grâce à son talent de journaliste perspicace et son style de narration convaincant, il a travaillé sans relâche pour raconter au reste du monde les évènements d'une Afrique complexe.
Komla Dumor a été le premier à présenter le magazine "Africa Business Report", sur la BBC. Il a ainsi voyagé à travers l'Afrique et a rencontré les plus grands entrepreneurs du continent.
Komla Dumor a interviewé Bill Gates, le fondateur de Microsoft, ou encore Kofi Annan, l'ex-secrétaire général de l'ONU. En décembre 2013, le journaliste a couvert les funérailles de Nelson Mandela.
La même année , il a été désigné par la publication "New African" comme l'une des 100 personnalités africaines les plus influentes.
La BBC a donc décidé d'immortaliser le défunt qui a consacré toute sa vie à faire du journalisme un métier passionnant et honorable, en instituant un prix qui porte désormais son nom.
"Komla incarnait une Afrique nouvelle, jeune, dynamique et entreprenante. Avec son enthousiasme contagieux, son sourire radieux et sa personnalité attachante, il a su parler avec talent des nouvelles du continent, qu'elles soient bonnes ou mauvaises, mais difficiles à ignorer", a rappelé Solomon Mugera, rédacteur en chef de BBC Africa.
"A travers ce prix, la BBC s'est engagée à poursuivre l'engagement de Komla pour le continent. Nous sommes donc à la recherche d'une étoile montante dotée d'un talent exceptionnel, quelqu'un qui incarne l'esprit de Komla", a expliqué Mugera
Les candidats ont jusqu'au lundi 2 février 2015, à 23h59 GMT, pour postuler. Pour plus d'informations sur les critères d'attribution du Prix Komla Dumor, tout comme les termes et conditions visitez le site web "bc.com/komladumor"

18 janvier 2015

ハラレ/ダーバン紀行4 ハラレ(ジンバブウェ)3 voyage pour Harare/Durban-4 Harare-3

ハラレ/ダーバン紀行4
ハラレ(ジンバブウェ)3 

ジンバブウェは他のアフリカ諸国に比べて20年遅く独立した。白人支配が続いたお陰でインフラが整っているといわれる。しかし、既に独立して35年である。DRCのインフラは90年代から2000年代の内戦で破壊されている。内戦が終わっても修復が出来ていない。メンテナンスが出来なければ道路、橋、水道、電気も10年で駄目になる。ジンバブウェはある程度以上にメンテが出来ていることを大いに評価したい。

1223日午後、市の中心にあるナショナル・ギャラリーを見学。入館料僅か1ドル。僅かというのは、この後に行った歴史博物館Museum of Human Science10ドルもしたからである。ただ、入場料がいいとして、中のカフェは人がいたが、外から入場料なしで入れるようで、絵画彫刻を干渉している客は僕らを除いて誰もなかった。

ナショナル・ギャラリーは近代絵画、彫刻の美術館だ。展示されている絵画や彫刻をみてその芸術的レベルの高さに驚いた。このギャラリーはハウスさんの友人に出かける前に訊いたら「一見の価値あり」と評価していた。その通りだと思う。
とくに石の彫刻はジンバブウェの新しい伝統になっている。黒いスプリングストーンspringstoneを材料にした彫刻が多数展示されていた。いわゆるアフリカ趣味ではなく、洗練された近代彫刻である。
美術館に展示されていたのは高さ1m以下の小型といえる彫刻だ。しかし、久しぶりに欧州以外で芸術の香りを堪能した。ジンバブウェ、なかなかのものだ。彫刻展覧、コンクールにはムガベ大統領も来ている。国をあげて彫刻に力をいれているのだ。
ギャラリーに展示作品のカタログもなければ、撮影も禁止だったのは残念である。
米国のアトランタ国際空港で
展示されているジンバブウェの彫刻家の作品群
(Wikiから)
ハラレにはチャプング彫刻公園というのもあり野外に大型の彫刻が点在している。


次に訪れた歴史博物館は入場料が高く、中は暗かった。子供たちをつれて家族が多少来ていた。考古学の展示を除いては余り関心を引かなかった。独立の近代史がない。ムガベ大統領は独立の闘士というよりよきネゴシエイターだったというが、南ローデシアの歴史も知りたいところだ。

1月18日 ニアメイ(ニジェール)でカトリック教会を焼き討ち iger: des églises incendiées à Niamey

Le dimanche 18 janvier 2015
6時半、薄曇、22℃、70%。

『シャルリー・エブド』事件と続く先週日曜日のフランス大行進の余波がイスラム世界で広がっている。
水曜日に発行された『シャルリー・エブド』紙は500万部になったそうだが、その一面にモハメッドを風刺する戯画が載った。戯画を載せるのも自由だし、これに抗議するのは自由だ。だが、暴力で報復するのは預言者モハメッドが示したアラーの意思にも反するはずだ。アラーは慈悲深く「全てを赦す」存在なのだから。
ニジェールの首都ニアメイでカトリック教会が17日(土)焼き払われ、第二の都市ジンデルでは前日金曜日フランス文化センターが襲撃され市民3人が死亡、憲兵1人が殺された。抗議行動というよりも暴動である。
憎しみに愛で応えるのがキリスト教であるが、イスラムは憎しみに慈悲で応えるのではなかったか。
モロッコのメジナ(旧市街)にはコーランを教える教室école coraniqueがある。子供たちがコーランを唱和している。毎日どれほどのスラート(章)を読むのかは知らないが、赤心にアラーの言葉が沁みこんでいくだろう。
ところが毎週金曜日のモスケ(寺院)では青少年たちに何が語られているのだろうか。煽動する誰かの言葉に乗じてしまう。自分でコーランを読むことを忘れているのではないかと思われる。
ニアメイで反フランス騒動
Niger: des églises incendiées à Niamey
17 janvier 2015 BBC Afrique

Des manifestants en colère contre la Une du journal satirique français Charlie Hebdo caricaturant le prophète Mohamed ont mis le feu à des églises et à des voitures de police.
Des personnes ont été arrêtées par la police, selon le correspondant de BBC Afrique à Niamey.
Mgr Michel Cartatéguy de la cathédrale de Niamey a décrit une "situation très grave". Il affirmait être en compagnie de prêtres effrayés, qui attendaient tous d’être exfiltrés sous escorte.
Les manifestations contre la publication d’une caricature du prophète Mohamed par Charlie Hebdo ont repris samedi dans la capitale nigérienne.
Des témoins rapportent que la police a tiré des gaz lacrymogènes pour tenter de disperser les manifestants.
Ils font état de la présence d’un millier de manifestants réunis à la grande mosquée de Niamey.
Selon le gouvernement, trois civils et un gendarme ont été tués vendredi lorsque des manifestants ont saccagé le centre culturel franco-nigérien, des églises, des débits de boissons et le siège du parti au pouvoir, le PNDS, à Zinder, la deuxième ville du pays.
Une quarantaine de blessés ont été dénombrés dans cette ville située dans le sud du Niger.

Les protestataires disent dénoncer la présence du président nigérien à la marche de Paris et son soutien au journal Charlie Hebdo, en déclarant qu’il est pro-Charlie.

17 janvier 2015

ハラレ/ダーバン紀行3 ハラレ(ジンバブウェ)2 voyage pour Harare/Durban 3, Harare-2

ハラレ/ダーバン紀行3
ハラレ(ジンバブウェ)2

ハウスさんはざっくばらんで、無類の親切なひとだ。英語は米語ではなく、英国英語でもなかった。分かりやすい英語、そういう英語を話してくれたのかもしれない。家に奥さんはいなかった。既婚か未婚か僕は知らない。僕はそういうプライベートなことは訊かないことにしている。僕は彼が事務所にしている部屋にベッドがあってそこに寝た。犬が来て僕のベッドで寝た。クリスチャンはサロンの隣の小さな部屋で同じく別の犬と一緒に寝ていた。
ハウス邸には居候が何人かいつもいる。友人たちとといえば友人たちなのだろう。ケープタウンから来たという女性もいた。朝食は遅くブランチだ。

ネット環境が素晴らしく、僕はリロングウェ(マラウィの首都)で8月に失くしたソフト、ベア・シェアBearShareDLした。

使用人は午前中だけ賄いのお姉さん、ほかに庭師がいただけのようだ。セキュリティー会社は見回るだけで、とくに人を入り口に配置していなかった。

街の中心にはタクシーでちかくの広いボロデル・ロードを直進して10分、12ドルが相場だった。ボロデル・ロードは郊外のムガベ大統領官邸に通じる道だから整備されているそうだが他の道も舗装されていて悪くはない。
ハラレの中心街
 スーパーとして食料品雑貨チェーン店スパーSparがあちこちにあった。ハウス邸から歩いて5分のところのガソリンスタンドのとなりにもあって、そこでタクシーを待っている間に傘を買った。タクシーは近くにたむろしていた若者たちの一人が携帯で呼んでくれた。若者はスパーに傘は置いていないよと云ったが僕は敢えて店に入って尋ねたらあったのだ。

1222日(月)昼にハウスさんと車でサム・レヴィーズ・ビレッジSam Levy’s Villageに買い物に行った。ショッピング・モールである。白人客が多い。モールがあ英国風の街並になっている。2012年に亡くなったジンバブウェの実業家レヴィ氏が1990年に建設したモールだとWikiで分かった。おそらくハラレだけでなくジンバブウェNo,1の規模であろう。
しかし、ある店でサッカー・シューズの値段を聞いたら350ドル。ちょっと高すぎではないか。輸入品なので高かったのdろうと思う、同モールの中のスパーで野菜や果物、牛肉なのの価格をみたら、ルブンバシよりずっと安かった。カフェでカプチーノやマキャートなどを飲んだが4人分で10ドルで釣りがきた。日本より安い。それでも地元の庶民には高いショッピング・モールだろうことは疑いない。
ハウスさんはケーブルを探していた。最初の電気屋では短いケーブルしかなかった。僕はその店でセコハンの携帯を2台買った。スマートフォンではなくconventionalな製品だ。クリスチャンにもiPhoneがあったので買ったが、充電が上手くいかないことがわかって翌日返品した。レシートには返品不可とあったが、問題なく返金してくれた。スマートフォンはダーバンのインド人街で買った。
20年以上前に出来たモールとは思えないほどメンテナンスができていた。
Sam Levy's Village
(ネットから採用した画像)
 同日午後、雨降る中を中心街に行った。ショッピング・センターも賑わっていた。欧州並。経済停滞とはいうもののクリスマス商戦で大勢の人が出ていた。
イーストゲート・センターEastgate Centre
ショッピング部門、事務所部門、駐車場がある
世界で初めての自然空調だそうだ
ジンバブウェ生まれのミック・ピアス設計
1996年開館
この写真撮影のときにガードマンともめたが
ルブンバシのようにたかられることはなかった

1月17日 CAN2015で女子選手がセックス・チェック Elle se déshabille pour prouver son genre

Le samedi 17 janvier 2015
6時、曇り、22℃、72.5%。寒い。

今日は1961年ルムンバ暗殺された日。

朝、ルーシー小母さんが来たのでインゲン豆を買った。小豆色の豆だったが、煮たら色が抜けてしまった。炭酸ソーダを入れるべきだったかな。ベーコンを入れて煮込んだら結構美味かった。

今日から赤道ギニア国でサッカー・アフリカ選手権CAN2015がはじまる。RDCコンゴも参加する。優勝候補はアルジェリアだそうだ。セネガルがダークホース。ガーナやコート・ジボワールも上位らしい。参加各国の監督は3人を除いて全て白人というのが気になった。アフリカで盛んなスポーツなのに監督を輩出できないのが現状なのだろう。

CAN2015女子サッカーでは赤道ギニア・チームの選手が問題になった。ヘノベーバ・アニョンマ選手のセックス・チェックである。彼女が強すぎて、男ではないかと疑われて、そのチェックのためにアフリカ・サッカー連盟の役員やチーム選手の前で裸にされたというのだ。
彼女は小さいときから「男まさり」でサッカーに興じていたという。「脚が早く、強いからといって私が女であることは、私が良く知っている」と語っているがその通りだ。
僕もこれはやりすぎだと思う。チェックのやり方がえげつない。
Genoveva Añonma選手
赤道ギニアの国語はスペイン語
Elle se déshabille pour prouver son genre
14 janvier 2015 BBC  Afrique

La joueuse de football équato-guinéenne Genoveva Añonma raconte comment la Confédération Africaine de Football (CAF) l’a obligé à se déshabiller pour qu’elle prouve qu’elle était bien une femme.
Elle avait l’habitude de supporter les insultes et les suspicions que les gens portaient quant au fait qu’elle soit une femme.
Durant quatre ans, elle a ignoré ces accusations, mais elle était loin de se douter de ce qui allait lui arriver à la suite du Championnat d’Afrique féminin en 2008.
Inscrivant le but de la victoire devant le public équatoguinéen et alors que son pays devenait la première équipe autre que le Nigéria a remporté le tournoi, Añonma aurait pu savourer son rêve.
Au lieu de cela, sa vie s’est transformée en un véritable cauchemar.
Doté d’un physique impressionnant et faisant preuve de véritables performances techniques sur le terrain, elle suscite les interrogations chez ses adversaires qui l’accusent d’être un homme.
Alertée, la Confédération Africaine de Football a sans doute choisi l’une des méthodes les plus ''humiliantes'' pour établir le sexe d’Añonma.
"Ils m’ont demandé d’enlever tous mes vêtements devant des responsables de la CAF et de l'équipe de Guinée équatoriale," se souvient-elle.
"J’étais vraiment bouleversée, mon moral était au plus bas et je pleurais. C’était totalement humiliant, mais avec le temps j’ai su y faire face."
L’histoire de cette femme de 27 ans force le respect, elle, qui s’est battue pour pouvoir exercer sa passion qui est le football.
"Lorsque j’avais cinq ans, dans mon village les filles me rejetaient car je voulais simplement jouer au football donc j’avais plutôt l’habitude de jouer avec les garçons'', dit-elle.
"Mon père vivait dans une autre ville avec une autre femme et ma mère ne voulait pas que je joue au football. Elle voulait que je fasse des études, que je devienne maitresse d’école ou que j’aide les enfants. Au final, je suis allée vivre chez mon oncle. Il m’a amené à la ville où j’ai pu étudier et jouer au football. "
Alors que son histoire a fait les gros titres, Añonma a préféré s’adresser directement aux médias pour faire taire les accusations concernant son sexe.

"On m’accuse d’être un homme car je suis rapide et forte, mais je sais que je suis une femme'', conclut-elle

1月16日 チャドがカメルーンに応援軍派遣 L'armée tchadienne bientôt au Cameroun

Le vendredi 16 janvier 2015
7時、薄曇、24℃、70%。

今日は現大統領ジョゼフ・カビラの父親LD カビラが2001年に暗殺された日で旗日。

9時、断水。やはり断水のない2015年は幻想だった。

セネガルの元大統領ワデ氏の息子カリムがハンガー・ストライキをしているという。洒落たことをするではないか。インフラ大臣を務めたことがあるカリムは、国家財産横領で訴追され去年4月からダカールの刑務所に入っている。未決囚。裁判に弁護士がつかないとハンガー・ストライキに及んだ。いつまで続けられるのだろう。父親の七光りで財をなしたような人物である。ハンガー・ストライキをしてもセネガル国民の同情はないだろう。

13日の記事でナイジェリアのテロ集団ボコ・ハラムがカメルーン侵略を始めたと書いたが、カメルーンともナイジェリアとも国境を接し、首都ンジャメナが国境に近いチャドがボコ・ハラム撃退軍をまもなく派遣する。チャド軍はマリ北部でもフランス軍と協同して活躍した。カメルーンはナイジェリア軍よりもあてに出来ると期待している。
マリ北部で戦ったチャド軍
L'armée tchadienne bientôt au Cameroun
Ie 16 janvier 2015 BBC Afrique

Des soldats tchadiens en patrouille le 16/04/2013 au nord du Mali
"Le président de la République du Cameroun, Paul Biya, annonce que (...) M. Idriss Deby Itno, président de la République du Tchad, a décidé d'envoyer un important contingent des forces armées tchadiennes pour venir en appui aux forces armées camerounaises qui font face avec courage, détermination et une vaillance reconnue de tous aux attaques répétées de la secte terroriste Boko Haram" sur le sol camerounais, a indiqué jeudi soir un communiqué du porte-parole du gouvernement camerounais, Issa Tchiroma Bakary.
Le communiqué ne précise ni les effectifs du contingent tchadien, ni la date de son déploiement au Cameroun.
Au Cameroun, la passivité du Nigeria et de la communauté internationale face à la progression de Boko Haram est très critiquée, suscitant un sentiment d'isolement grandissant.

L’une des attaques les plus meurtrières lancées par la secte Boko Haram a fait récemment plus de 2.000 morts à Baga, localité située au nord-est du Nigeria, selon Amnesty International.

16 janvier 2015

ハラレ/ダーバン紀行2 ハラレ1 voyage pour Harare et Durban 2 Harare 1

ハラレ/ダーバン紀行2
ハラレ(ジンバブウェ)1

ルサカからハラレに行くバスは予約していなかった。いや、ネットで予約できなかったのだ。ハラレ行きのバスはルサカのバス・ターミナルの中ではなく、外側に駐車場があった。数社がバスをとめていたが、ライオン・キング社のバスが一番新しそうだった。

ハラレには行きたかった。泊まって街をじっくり見たかったのである。一昨年12月、確かにハラレを通った。しかし真夜中に通過しただけだったし、休憩のために立寄ったガソリンスタンドはみすぼらしかった。でも、ネットでハラレを訪れた人の記録をみると近代的な街のようだ。
何しろ独裁者ムガベの国の首都だ。ムガベの影があちこちにあるのか、市民はどう暮らしているのか知りたかった。

RDCコンゴのカタンガ州、その州都ルブンバシと首都キンシャサには1時間の時差がある。ルブンバシがGMT+2になっている。今回の旅行で通った国々、ザンビア、ジンバブウェ、南アは何れもGMT+2である。時差がない。しかし、南半球を南に下っていくから日没時間は延びていく。
南半球は今が夏である。しかし、12月は雨季という区分けがいいのか旅行中晴天に恵まれた日は少なかった。ハラレで傘を買った。大きな傘で重かったがよく役に立った。

ジンバブウェの通貨は米ドルになった。ATMから出てくる紙幣は米ドル札。これはRDCコンゴも同じなので驚かない。ジンバブウェ・ドルはハイパーインフレの所為である。インフレの原因はムガベの白人排斥政策にあった。ドルになってインフラは収まった。
店で買い物をして1ドル以下の釣銭の場合、ドルのコインはない。南アやボツワナのコインで代替されている。1米ドルがほぼ10ランド、10プラなので計算はしやすい。
ハウスさんからもらった1000万ドル紙幣
冗談ではない
もらったときは新札だったが
クリスチャンのポケットの中でしわしわになった
資質が悪くいくらでもコピーできそう
ハラレで泊まったのはハウス邸である。
僕は「Couchfurfing」のメンバーである。カウチサーフィングについては別途書く。ハウスさんがホストになってくれたのだ。
ルサカからのバスは3時間遅れてハラレに到着した。ジンバブエ国境でSIMを買い、街道途中でAirTime(通話クレジット)を買っていたのでハウスさんにバスの遅れを知らせていた。
ハラレのバス・ターミナルは立派な建物でルサカのように無秩序ではない。タクシーでハウス邸にむかった。住所はバレンタイン・パークBallentyne Park。ハラレの北東、ボロデイルBorrowdale地区である。パークの近くに来たが運転手が住所で家を探しあてられない。91時近くで通りを歩いている人はいない。そこここのガードマンに聞きあさっていた。電話でハウスさんに何回も連絡、運転手と話してもらったが、運転手はぐるぐると堂々巡りするばかり。あたりは高級住宅街で木々に覆われている。結局、警察署に行ったら警官が同行してくれた。やっとの思いで見つかったハウス邸は最初に道を尋ねた場所のすぐ近くだった。
ハウスさんの邸宅
(ハラレ)
招きいれられたハウス邸のサロンは僕の家(120m2)ほどもある広いサロンだった。大型犬が2匹、小型犬が1匹、猫が1匹いた。みな人懐っこい。

ハウスさんはラグビーの選手らしく大きな体格で100kg以上ありそうだ。スポーツ万能で、テニス、ゴルフ、釣り、自転車(マウンテン・バイク)、バーベルがあった。父親はオーストリア人、母親がオランダ人だという。白人だがジンバブウェ人である。生まれは南ア。ジンバブウェを愛している。この国が好きだから他国に移民する気は毛頭ないといっていた。仕事はプール設計と建設。会社の社長さんだ。39歳。